-Ⅱ 特集 3 補論-

補論 河野論文を受けて

浮かび上がる<近代>への関心―2つの視点を通して「生存権」を

 

                      橋本宏子

(神奈川大学名誉教授)

目次

一 補論を提示する理由

二 河野さんの考え方を読み解く

1、背景

2、「河野さんの考え方を読み解く」にあたって

(1)あらかじめ述べておきたいこと

(2)河野理論と池原毅和弁護士のコメントとの交錯

三 本稿の関心

1、浮かび上がる<近代>への関心 二つの視点から

(1)<近代>と「西欧の白人成人男性」像

(2)<近代>と「権利」-「人間が人間として生きる権利」を考える

2、解明されるべき課題への取組み 提起された二つの切り口を拠点として

(1) 問題への視角<近代>と「西欧の白人成人男性」についての課題

(2)問題への視角「人間が人間として生きる権利」に含まれる要素

3、「近代的自我」を再考する

(1)「西洋人の自我(意識のあり方)」と「死、老、病」

(2)「西洋人の自我(意識のあり方)」と障害者

4、「人間が人間として生きる権利」に含まれる要素を再考するー 見落としてきたものは何か?

(1)これまでの確認

(2)自由・平等が中心とされたのはなぜか

(3)「人権」を考える根底になにを置くか

四 見落としてきたことを踏まえてー「人間が人間として生きる権利」の再考

1、「近代的自我」の課題を超える視点 生存にとっての他者

(1)<近代>における進歩・発展

(2)境界(間)への挑戦

(3)注目される「複雑性」や「不完全さ」

2、生存権(人間として生きる)を原点にー自由・平等<生存

(1)確認 考え方の整理

(2)他者から侵害されないことが、人間として生きる条件であるという考え方と「人間として生きる」を根本基準とすることの違い

(3)特殊<近代>西欧的な「人権」概念では包摂しきれないもの

(4)「人間として生きる」

(5)「障害年金の要保障事由」と「稼得能力の喪失・減退」

(6)「人間として生きる」ことと日常生活、社会生活

(7)当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障

3、まとめ

(1)出発点の確認

(2)見落としてきたものは何か

(3)「生存にとっての他者の存在」と「生存権」を繋ぐものはなにか

(4)本稿と障害年金

(5)障害年金の立法政策を考える前提として

(6)社会保障法というものの考え方

(7)社会保障の制度体系と障害年金

付記1 河野さんの基本的な考え方

付記2 「自覚的主体的人間」の創出と<近代>との関わり

付記3 「従属としての障害(者)」の形成と「体制的な生活阻害」

付記4 西洋<近代>と「西洋人の自我(意識のあり方)」

(注)

<注>

 国年令・厚年令別表 2

 

 

一 補論を提示する理由

河野さんは、「障害年金の要保障事由」について、「社会モデル」の理解と関連づけて、次のように述べています。「ICFにおける障害の構造的な捉え方を踏まえ、そのうえ障害者権利条約に定められたように『障害者は機能だけではなくて、社会的障壁との相互作用によって、一般の市民と同じように地域社会で自立して生活することを、あらゆる面で妨げられている』という障害の理解に則して稼得能力の喪失・減退(すなわち障害年金の要保障事由)の有無・程度を認定する方式へと改革することだと理解しています」(第5回障害年金法研究会事例検討部会における発言から。以下「研究会」という。下線は橋本のもの。この原稿のすべてにおいて以下同じ)。

 私は、「障害年金の要保障事由」を「稼得能力の喪失・減退」と関連させて考えることに疑義を感じています。現行法令に則して考えるなら、むしろ障害認定の評価基準とされている「日常生活能力」についての考察を行政解釈の理解を超えて深め、それを基軸に発展的に理論を展開していくことが、解釈論を考える上でも、立法政策を論じる上でも重要ではないかと、考えています。

とはいえ、稼得能力の喪失・減退に依拠しながら、障害年金の要保障事由の有無・程度を認定する方が明快なことは事実です。「日常生活能力とは何か」を定義することは難しく、私自身も、自分の考えをすっきり整理しきれないでいます。

「研究会」の質疑の中でも、以上のことに関連することが話題になりかかりましたが、私は、それについてうまく応答できませんでした。

今回私が、「河野論文を受けて」(以下、「本稿」という)において述べようとすることは、ひとことでいえば「研究会」の場で述べられなかったことの「紙上補足」ということになります。しかし、実際には「ひとことで言えば」といえるまでに纏まっておらず、いくつかの点についての「考察」を辿ることで、わずかですが、「日常生活能力」を基軸に発展的に理論を展開していく方向性がみえてきたかな、というところです。

 

二 河野さんの考え方を読み解く

 

 1、背景

ウエブジャーナル創刊号に掲載されている河野正輝論文「障害者の年金・手当・福祉サービス法における社会参加阻害の要因と展望―障害法の視点から」(以下「ジャーナル論文」という)は、障害年金にかなり引き付けたところで論旨が展開されています。

「ジャーナル論文」は、河野さんが日本障害法学会編「障害法」創刊号(以下「障害法 創刊号」ともいう)に発表された「『新たな社会法』としての障害法」で展開されている考え方が土台になっていると思われます。

またこの間、河野さんとはメール交換や直接お会いすることで、河野さんの考え方について、上記を超えるところでの最近の考察についてもお話を伺ってきました。

 

2、「河野さんの考え方を読み解く」にあたって

(1)あらかじめ述べておきたいこと

① 上記のことをふまえて、本稿ではまず河野さんの考え方を以下の展開に必要な範囲で「確認」しておきたいと思いますが、具体的な記述は、付記1に譲っています。

② ここで本稿における注記の扱いについて説明しておきたいと思います。

ⅰ 付記は、主に本文中で指摘していることの詳細について記述しています。

ⅱ(注)は、本文で用いた用語の説明を中心に記載しています。

ⅲ <注>は、青木宏治高知大学名誉教授(英米法、憲法、障害児教育法)からこれまで「研究会」等(以下「青木研究会」という)を通じ得たことを、本稿の関心に即して橋本が、青木さんの了承を得て纏めたものです。なお本稿中の国際人権、障害者権利条約、アメリカ法についての記述も、個別に指摘するものの他は、「青木研究会」で青木さんから得たことを土台に橋本の関心から整理したものです。

 ③ 河野論文については、本稿での以下の記述並びに付記1以外の注記でも適宜触れています。

   ④ このように本稿では多くを注記に譲ることで、本文の流れを簡潔にするように努めています。ウェブジャーナルの役割のひとつが「理論と実践をつなぐ」ことにあるとすれば、本稿もその役割をめざしたい。成功したかどうかは別としてその意図は上のようなところにあります。

   ⑤ ところで河野理論の考察を経て本稿の関心は、ⅰ<近代>と「西欧の白人成人男性」像 ⅱ <近代>と「権利」の二点にむかっていくことになりますが、ⅰ についての本稿の指摘は、全体として河合隼雄『対話する生と死 ユング心理学の視点』(大和書房)の他、『河合隼雄著作集』(岩波書店 1994 所収)の論文に依拠しつつ、橋本の理解に基づき整理したものです。ⅱ についての記述は、全体として下山 瑛二『人権の歴史と展望』(法律文化社 1972年)に依拠しています。

 

(2)河野理論と池原毅和弁護士のコメントとの交錯

さて「障害法 創刊号」には障害法研究会創立大会での河野報告(「障害法 創刊号」掲載の河野論文と基本的に同じと考えられます)を受けた池原毅和弁護士のコメント(正確には、河野報告を受けた日本障害法学会でのコメントを敷衍したもの)も掲載されています(「障害法 創刊号」p97~p102参照)。ちなみに池原毅和さんは障害年金法研究会の顧問でもあります。本文の関心に添って、河野さんの考え方と池原さんの考え方を交錯させると、以下の諸点が浮上してきます。

 

 ① 社会モデル 人権モデル

 河野さんは、基軸に「社会モデル」(注1)をあげています。これに対して池原さんは、「人権モデル」(注2)に高い関心を示しています。もっとも河野さんの場合には、「社会モデル―人権モデル―法的人間像」について、河野さんの固有の理解があり、その理解に基づいて論理が展開されていると考えられます(付記1 参照)。

 ② 基点とされる障害者権利条約の条文の違い

両者の違いは、河野さんと池原さんが、それぞれ障害者権利条約の条文のどこを重視しているかにも反映されているようにみえます。河野さんは障害者権利条約の主として2条、5条、19条に注目しているのに対し(付記1 参照)、池原さんは人間の尊厳を最上位規範として(障害者権利条約3条a)、平等性(条文等略。以下同じ 橋本)、社会的包容化、教育、就労、健康やハビリテーション・リハビリテーション、文化的で相当な社会的生活の権利等々の人権の帰属主体としての障害者像に注目しています(「障害法 創刊号」p100参照)。

   ③ 平等と人間の尊厳(「生存権」)

上のことは、河野さんが、障害のある人に関する法的課題を「平等」を基軸に考えようとしているのに対し、池原さんは「生存権」「人間の尊厳」を基軸にしているという、対比でみることもできそうです(もっとも、池原さんへの橋本のヒアリングによれば、池原さんとしては、障害者権利条約にいわれる人間の尊厳の理解を日本国憲法13条や25条と結びつけて考えてはいないということでした)。

   ④ 「西欧の白人成人男性」

ⅰ 池原さんは、普遍化された人間像を前提にする世界人権宣言や自由権規約、社会権規約などの人権規約は実際には、「西欧の白人成人男性」の歴史的社会的経験に基づいて構成された規範であり、特定の属性ゆえに差別され排除されてきたそれ以外の集団の歴史的社会的経験に適合した規範になっていない、という形で「西欧の白人成人男性」像について言及しています。

ⅱ 河野さんへの私のヒアリングによれば河野さんも、従属的障害者像は「市民法的人間像」すなわち西欧の・白人の・男性の・非障害者の・納税者の成人を抽象化した範疇と考えられる人間像から除外され疎外されたさまざまな従属的集団の一つであるとともに、人間の多様性を価値あるものとして承認する人間像である、と考えられています。なお河野さんは、「障害者とは、一定の社会的集団に付加される社会的身分(地位)にあたる。この社会的身分の特徴は、社会システムに置いて構造的に生活上の不利益を付加されてきた点にある」として、このような社会的身分(地位)としての障害(者)を「従属としての障害(者)」と定義しています(「障害法 創刊号」p15参照)。

ⅲ 「西欧の白人成人男性」についての記述はおそらく、後に触れるテレジア・デゲナー(Theresia Degener)が複数の論文で指摘していることを土台に、お二人がそれぞれの理解に基づき消化した上で、指摘されているものと思われます。いずれにせよ、お二人が共通して「西欧の白人成人男性」像に注目されていることは留意すべきことに思われます。

 

三 本稿の関心 

1、浮かび上がる<近代>への関心 二つの視点から

 上記の考察から、本文の関心は(1)<近代>と「西欧の白人成人男性」像 (2)<近代>と「権利」の二点に集約されます。以下、少し説明を加えていきたいと思います。

 

(1)<近代>と「西欧の白人成人男性」像

 

 ① 「西欧の白人成人男性」像と「市民法的人間像」の関係

先の指摘のなかで河野さんは、「『市民法的人間像』すなわち西欧の・白人の・男性の・非障害者の・納税者の成人を抽象化した範疇と考えられる人間像」という言い方をしています。「市民法的人間像」は、近代市民社会を前提としており、その「市民法的人間像」として想定されていたのが、「抽象的な自由・平等の地位を保つ自覚的主体的人間」(強い安定した自立した個人)ということになります(注3)。この「市民法的人間像」が、ここでは「西欧の白人成人男性」像として表現されている、といって間違いないように思われます。

 

 ② 「市民法的人間像」

ⅰ 「抽象的な自由・平等の地位を保つ自覚的主体的人間」像の創出が近代と関係していること、またこのような「自覚的主体的人間像」が資本制社会において必要とされたことは、まずここで押さえておくべきことのように思われます(関心のある方は付記2を参照下さい)。

ⅱ 「障害法 創刊号」における河野論文のタイトルが、「『新たな社会法』としての障害法」となっていることからすると、「市民法的人間像」に関連することとして、市民法、社会法、新たな社会法、障害法についても頭に入れておく必要がありそうです。(注4)参照

 

  ③ 「西欧の白人成人男性」と「近代的自我」

とりわけここで指摘しておきたいことは、西洋<近代>と「西洋人の自我(意識のあり方)」(以下「西洋人の自我」という)の関係であり、「西洋人の自我」の特徴についてです。この点は、法的視角から執筆されている河野論文、池原論文では、言及はありません。私の固有の関心にそって、この点にも注目していきたいと考えていますここでは、西洋<近代>と「西洋人の自我」の関わりについて、その要点のみあげておきます。

 

ⅰ 「西洋人の自我」は、「他に依存しない存在」として確立し、他から独立した主体性をもつ、といわれています。

ⅱ 「西洋人の自我」が、このような特徴をもつ存在として確立されたのは<近代>であることから、「西洋人の自我」は「近代的自我」とも称されています。

ⅲ 「近代的自我」は壮年男子を中心的イメージとしています(詳しくは、河合隼雄「昔話と日本人の心」岩波書店 2018年 参照)。

ⅳ なおここでは、「西洋人の自我」という言葉は、「西欧人(あるいは欧米人)の自我」と同義で使用します。

 

   上のことから「近代的自我」は、壮年男子を中心的イメージとしていることを入口として、さらにはⅰのことを踏まえてその内実が「西欧の白人成人男性」像あるいは「強い安定した自立した個人」像とつながりをなすものと考えることができそうです[1](本稿注1)。

  ④ 日本人の自我(心の意識のあり方) 

  それでは日本人はどうなのか、なぜ西欧人の自我だけが強調されるのか という疑問が当然浮上してきます。確かに日本人と言おうと何人と言おうと、共通の部分が多いことは事実です。しかし最近は、普遍的な基盤を前提とした上で、日本人と西欧人の自我のあり方が異なるという点にも関心が向けられてきています。欧米中心主義の考えが弱くなり、西欧人の自我のあり方だけが、唯一の自我のあり方ではないということが強調されるようになってきているということでしょう。日本人の自我は、常に自他との相互的関連のなかに存在し、「個」として確立されたものではないといわれています。そのため、かつては極端な場合「自我がない」とか「日本人には個性がない」といわれ、日本人の無責任性とか、他人志向性などと非難されてきました。こうした日本人の自我の特徴(他にひらかれている、すべてのものを包摂する、バランスをとる、場のなかにところを得る、察する、耐える等々)についても、近年では「他に開かれており、他と切り離して存在することが難しい」という形でその特徴がとらえられるようになってきているといわれています。しかしそれは、西洋人の自我を全面的に否定し、日本人の自我を全面的に評価するということではありません。近代的自我のなした仕事の大きさとそれを現代においても無視できないことは事実です。しかし他面、後述のように近代的自我に対する反省も生じてきています。そしてその反省の部分に、特に障害者問題にかかる「西欧の白人成人男性」像の問題点が関係しているよう窺えます。いささか先取り的にいえば、その課題の克服に、日本人の自我のあり様の一部が良い意味で関係しているようにみえるということでしょうか。

その際注意しなければならないことは、日本人がその意識のあり方として、西洋人と異なる側面をもち、異なる対応を示すことが少なくない反面、客観的には(頭のなかでは)、西洋人の自我と同じように「西欧の白人成人男性」像にそった物の考え方をしている場合もまた少なくないということです。例えば、<自立>についての考え方にその傾向は顕著にみられるように思いますが、どうでしょうか。その意味では「西欧の白人成人男性」像について考えることは、(女性も含め)私達自身を振り返ることであるとも思われます。日本人の自我については、この程度にして話を<近代>に戻したいと思います。

 

(2)<近代>と「権利」-「人間が人間として生きる権利」を考える

 先に障害者権利条約の条文に引き付けたところで、河野さんが「平等」を基軸にしてその考えを展開しているのに対し、池原さんは「生存権」「人間の尊厳」を基軸にしている、ようにもみえるという指摘をしました。本文の二番目の関心は、<近代>と「権利」、さらにいえば「人間が人間として生きる権利」についての関心です。

 

   ① 自由権・平等権を中心とした人権体系

現在、実定法制度として定立されている人権体系には、自由権を中心とし、それに若干の「生存権」的要求を充たすための社会権を加味した構造をとるものが多いといわれています

   ② <近代>西欧の所産

注目したいことは、自由権を中心とする人権体系は、アジア・アフリカ社会においては、その起源を見出すことができず、その所産物を継受した場合にのみ発見しうる制度である、といわれていることです(下山 瑛二「人権の歴史と展望」p22 法律文化社 1972年)。つまり、自由権(平等権)を中心とする人権体系は、<近代>西欧社会の所産だということになります(下山論文の上の文章では、「自由権を中心とする~」という表現になっていますが、自由権(平等権)を中心とする人権体系を意味することは下山論文全体から明らかなことに思われます)。

   ③ これまでの国際人権における規定のあり方

世界人権宣言、市民的及び制止的権利に関する国際規約(自由権的規約)および経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)の規定のあり方も上記のこと(自由権(平等権)を中心とする人権体系)との関連性が強いように窺われます。

④ 障害者権利条約とアメリカADA法の位置

では障害者権利条約はどうでしょうか。障害者権利条約は、障害のあるアメリカ人法(Americans with Disabilities Act of 1990:ADA 以下ADA法という)を継受しているといわれます。そしてADA法の基礎となる権利論は、Civil Rights(公民権) モデルであるといわれています。そのアメリカは、周知のように連邦憲法上「生存権」に係る条項をもっていません。そのことは、遡れば自由権を中心とする近代西欧社会の人権体系と無関係ではないように私には思われます。補足すればアメリカでは、Civil Rights モデル等を通じて、実質的な「生存権」の積み上げともいえる法政策がなされていますが、その効用と限界にも目を向ける必要があるように感じています。ADA法を継受する障害者権利条約が、ともすれば「自由・平等」の重視に傾き勝ちのようにみえるのもこうした背景と関係しているように私にはみえますかし同時に、それがどのような条件のもとにおいては生存権を基底とする人権を保障し、実質的自由・平等を確保するプロセスになるかの検討ももとより重要なことはいうまでもありません<注1>

⑤ なお本稿の関心は、資本制社会における制度的保障としての自由権・平等権を一概に否定するのでないことは、上記④の最後に記したとおりです。

 

2、解明されるべき課題への取組み 提起された二つの切り口を拠点として

障害者「問題」を考える上で重要なことは、<近代>西欧社会「西欧の白人成人男性」を中心に構成されてきたという視点だけでなく、自由権を中心とする人権体系が、<近代>西欧社会の所産物であることにも注目することが重要だと考えています。この二つは、どこかで交差しそうですが、まだ先はなにもみえていません。

 ではありますが、提起された二つの切り口を拠点として、解明されるべき課題に肉薄していくことが次の課題であることはいうまでもないでしょう。

 

 (1) 問題への視角―<近代>と「西欧の白人成人男性」についての課題

   ① それではなぜ、<近代>西欧社会「西欧の白人成人男性」を中心に構成され、(河野さんや池原さんも指摘するように)、障害者や女性などの集団を差別し、排除することになったのでしょうか。

   ② その理由が明らかにされなければ、障害者「問題」を克服する視点は、明確になってこないのではないでしょうか。

 ③ 河野さんは、「従属としての障害(者)」が形成されてきたのは、「偏見、固定観念および社会に蔓延する無視・放置を通して、社会の態度や慣行が、システム化された不利益を特定の機能障害に付加してきたからであ」り、そのことによって「従属的な階層としての障害者の地位」が形成されてきたと指摘しています(以上について詳細は、「障害法 創刊号」p15参照)。そこでは、「従属としての障害(者)」の形成は、体制的な生活阻害」の問題として把握されているといえそうです(関心のある方は付記3を参照下さい)。

   ④ 障害者に対する偏見、固定観念および社会に蔓延する無視・放置が生じるのはなぜなのでしょうか。体制的な生活阻害」の問題を、「西欧の白人成人男性」像として象徴される「近代的自我」の特質と絡ませてみることによって、もしかしたら障害者「問題」を克服する視点は、より明確になるかもしれません。

  ⑤ 「近代的自我」(「西洋人の自我」の様々な側面(課題)に注目し、その意味することを考えることは、生きることが障害者にとっては、なぜ「障害者問題」になってしまうのか、それを克服するために、私達はどうあるべきかについて多くの示唆を含んでいるようにみえます(「近代的自我」の様々な側面(課題)に関心のある方は付記4を参照下さい)。

 

(2)問題への視角―「人間が人間として生きる権利」に含まれる要素

  ① 「人間が人間として生きる権利」という概念には、少なくとも「人間が」・「人間として生きる」・「権利」という3つの要素が含まれています。

  ② 「人間が」というのは、主体性をあらわす言葉であり、「人間として生きる」というのは一定の状態を表す言葉であり、「権利」というのは他者に対する関係を表す言葉です。

③ 特殊近代西欧的な「人権」概念とされる「自由権を中心とする人権体系」は、「自覚的主体的」な人間が他者から侵害されない(「自由・平等」の重視)ということが、人間として生きる条件であるという考え方を表現しています。

④ これに対して、「生存権」を、あらゆる「人権」の根本基準とすることは、「人間として生きる」という点にアクセントが置かれることになります(以上、①~④は、前掲下山「人権の歴史と展望」p11 による)。

⑤ 障害者の人間としての本源的自然的な要求から発生する「人間として生きる」ことの要求のなかには、特殊<近代>西欧的な「人権」概念には入らないものがあるのではないでしょうか。見落としてきたことを見出すことが次の課題に思われます

⑥「非障害者との対比や権衡という次元とは別に障害のある人固有の尊厳を守る人権規範を考えること」(前掲 池原「障害法 創刊号」p100)という指摘は、私の理解に引き付けていえば、「生存権」(人間として生きること)を、あらゆる「人権」の根本基準とすることを求めているように思われます。生存権(人間として生きること)を起点として、はじめて自由権や平等権の存在事由と限界が明確になるのではないでしょうか。

 

3、「近代的自我」を再考する 

 

(1)「西洋人の自我(意識のあり方)」と「死、老、病」

<近代>社会が強力なものになるにつれて、「死、老、病」などを社会システムから排除しようとする傾向が強められてきたことは(本稿注2)、「近代的自我」に関わる諸側面、例えば「近代的自我がめざした進歩と発展」や「近代的自我の他を対象化して把握する力」「労働ではなく、労働力(所有)を人権の中枢的概念とする考え方」と関係しているようにみえます。このことは、<近代>における「障害者」の位置を考える上で重なることが少なくないと思われます。以下では上記(2)「問題への視角」を踏まえて、もう少しその内実をおってみることにしたいと思います。

 

(本稿注2) 河合隼雄「対話する生と死」p216~7(大和書房 2006年)では、「死、老、女、病」などをそのシステムから排除しようとする傾向を強め、と指摘されています。デゲナーは、特定の属性ゆえに排除される傾向をもつ「集団」をより広い範囲で捉えています。本稿では、とりあえず視点を「死、老、病」におき、それとの関わりで<近代>における「障害者」の位置を考えていくことにしたいと思います。

 

(2)「西洋人の自我(意識のあり方)」と障害者

 

 ① 「近代的自我」がめざした進歩と発展

ⅰ これまでの確認

西欧<近代>において主体性を獲得した自我が、論理実証主義という態度をみにつけたことにより、自然科学は急激な発展を遂げてきました。「近代的自我」は、「まず人間ありき」を出発点として、自然科学を武器として自然を「客体」として対象化し、支配することを通して、人間社会の進歩や発展をめざしてきた、といってもよいでしょう。注目されるのは、「進歩」とか「発展」の概念が重視されてくるのは<近代>になってからということです(付記4をあわせ参照下さい)。

 

ⅱ 「進歩」とか「発展」の概念が与えた「人間が人間として生きる権利」のあり方

<近代>における西欧社会の人権体系は、「自由権」(平等権)を中心に構成されています。それは、「自覚的主体的」な人間が他者から侵害されないことが、人間として生きる条件であるという考え方をあらわしています。こうした考え方は、自然科学を武器として自然を支配し、進歩や発展をめざすことができる「人間への全幅の信頼」を前提とし、「生存すること」「生存できること」は、そこでは所与の前提とされる傾向をもち、「いかに生きるか」にその関心が向けられているように窺えるがどうでしょうか。「進歩」とか「発展」の概念は、他者に向けられる「人間が人間として生きる権利」の主張のあり方にも影響を与えているようにみえます。

 

ⅲ 自然科学の「進歩」「発展」と「老」や「死」の理解

自然科学の発展を背景に、西洋近代科学は病気の原因を見出し、それを除去して治療することに集中してきました。そのことは歓迎するべきことではありますが、他面現代医学は、病気の原因を見出し、それを除去して治療することに集中した結果、死を敗北ととらえ、死から目を背けることをその基本構図としてしまったようにもみえます(河合隼雄・柳田邦男「心の深みへ」p181 新潮文庫 2013年)。

「生きること」を当然の前提であるかのように扱うこと、あるいは「いかに生きるか」に関心を集中することは、「老」や「死」を避けるべきもの、疎ましいものとして、「死、老、病」を社会システムから排除しようとする傾向に通じるものがありそうです。そうみなすことで、「老」や人間の「死」を人間のひとつの「姿」として、人間の一生の中に積極的に位置づける(包摂する)ことを難しくしている、といえるのではないでしょうか。

詳細は省きますが、他からいったん切れ、他に依存しないことに積極的な意味を見出そうとする「近代的自我」にとって、死を客観的に論じることはできても、死を自分のなかに受け入れつつ、自身の存在のあり様を考えることは難しいように思われます。そのことは、他人の死を自分の問題として捉えることが難しいことをも意味しています。客観的な死を論じることは、いわば「三人称」の立場で死を考えることです。そこでは、冷静に科学の論理で論じることができますが、他人の死を自分の問題として捉えることはできません。自分の問題として捉えるためには、そこに自分が入っていく「他者との関係性」が求められてくることになります(前掲「心の深みへ」p213)。それは、「近代的自我」が苦手とすることのひとつといえるのではないでしょうか。

 

   ⅳ 健康でない生命」の立ち位置 

    自然科学の「進歩」とか「発展」に結びついたところで、できる限り治癒させ健康にする手立てを探る方向は、いわゆる慢性病や難病等「健康でない生命」に対する社会の立ち位置を曖昧なものにしているようにもみえます。

 

② 「新しい病」と客観的観察・自然科学的手法の再考

   自然科学の発展とともに、観察者と観察対象である自然を切り離し、客観的観察によって知見を得るという自然科学的手法が主流を占めてきたことは、医学における治療つまり患者と医師の関係においても基本的な姿となっています。しかし<近代>社会になり、神経症のように薬も手術も効果をもちにくい病が増加してくると、その治療においては「『近代的自我』の外に価値あるものが存在する」ことが重視されるようになってきます。「『近代的自我』の外にあるもの」とは「無意識」を指しますが、患者の「無意識」に対応するためには、治療者も患者の「無意識」に関わる(治療者も患者の一部になる)ことが求められてくる、いいかえれば患者と治療者を互いに「他と切れた、他に依存しない存在として確立し、他から独立した主体性をもつ存在」とみることへの「再考」が促されてくるように思われます。

 同様に、観察者と観察対象である自然を二分法的に切り離し、客観的観察によって知見を得るという自然科学的な手法を人間の相互関係のあり方にも及ぼすことの問題点は、教育学や心理学の領域において、子どもやクライアントを観察対象としてみること、すなわち教育者や観察者を子どもやクライアントと切り離す手法への批判としても指摘されてきています。

 

  ③ 境界(間)への挑戦

  以上のことは、「『近代的自我』の他を対象化して把握する力」あるいは我々がともすると二分法によって物事を考える傾向にあることを評価しつつも、他面では、その再考をも促しているといえるでしょう。障害者問題を解決していくためには、主体・客体の重なりあい、つまりその境界(間)への挑戦が求められている、ということではないでしょうか。

 

4、「人間が人間として生きる権利」に含まれる要素を再考する 見落としてきたものは何か?

 

(1)これまでの確認

   ① 自由権・平等権を中心とした人権体系

現在、実定法制度として定立されている人権体系には、自由権を中心とし、それに若干の「生存権」的要求を充たすための社会権を加味した構造をとるものが多いといわれています

   ② <近代>西欧の所産

注目したいことは、自由権(平等権)を中心とする人権体系は、アジア・アフリカ社会においては、その起源を見出すことができず、その所産物を継受した場合にのみ発見しうる制度である、といわれていることです。つまり、自由権(平等権)を中心とする人権体系は、<近代>西欧の所産だということになります。

 

(2)自由・平等が中心とされたのはなぜか

<近代>における西欧社会の人権体系は、「自由権」(平等権)を中心に構成されています。それは、「自覚的主体的」な人間が他者から侵害されないことが、人間として生きる条件であるという考え方をあらわしています。河野さんの「障害者は機能だけではなくて、社会的障壁との相互作用によって、一般の市民と同じように地域社会で自立して生活することを、あらゆる面で妨げられている」という指摘にも、「<近代>における西欧社会の人権体系のあり様」が反映されている、とみるのは誤りでしょうか。「従属としての障害(者)」という把握においては、「生存すること」「生存できること」は、むしろ暗黙の前提であって「いかに生きるか(他の市民と同じように自由・平等に生きること)」にその関心が向けられているように私にはとれるのですが、どうでしょうか。

遡ればこうした把握の背景には、自然科学的認識を武器として自然を分析・支配し、進歩や発展をめざすことができる「人間への全幅の信頼」が関係しているようにみえることは先にも述べました。「進歩」とか「発展」の概念は、他者に向けられる「人間が人間として生きる権利」の主張のあり方にも影響を与えているように窺えます。

 

 (3)「人権」を考える根底になにを置くか

  自然科学の進歩や発展が、資本主義経済の発展を促してきたことは否定できないでしょう。そして産業の自由活動を確保するために、市民法上の自由権、とくに財産権の保障という論理構造がとられてきたことも指摘されてきたところです。

 進歩や発展をめざすことができる「人間への全幅の信頼」に裏付けられた「生存すること」「生存できること」への自信は、「財産」の所有と直接 間接に結びついていることが少なくないように思われます。結果、そこでは、(進歩や発展あるいは「財産」の所有とは無関係な)「人間として生きる」ための多くの主張が、視野の外に置かれてしまってきたのではないでしょうか。

このようにみてくると「所有」を「人間の原点」とし、「人権」の中枢的概念とする考え方に対して、「人間の社会生活の基点に労働を置く」(その保有者の生命の保持あるいは自己保存を目的とする)という考え方が、「人権」の理論的考察の鍵となる、という指摘には極めて重要な示唆が籠められているように思えてきますが、詳細は次章に譲りたいと思います。

 

四 見落としてきたことを踏まえてー「人間が人間として生きる権利」の再考

 

 1、「近代的自我」の課題を超える視点 生存にとっての他者

「近代的自我」に関わる諸側面は、「死、老、病」などを疎ましいものとして社会システムから排除しようとする傾向、さらにいえば「西欧の白人成人男性の考え方に基づいて物事が決定・処理され、障害のある人びと等、特定の属性をもつ人々の思いの実現を無視し、差別あるいはその存在を排除してきたといわれること」とも繋がっているように思われます。それはなぜなのか。以下では、その理由を今一度整理・確認するとともに、「近代的自我」の課題を超える視点をどこに求めていったらよいのか、探っていきたいと思います。

 

(1)<近代>における進歩・発展

  ①「健康でない生命」の軽視 「健康でない生命」の生存の希薄さ

主観・客観の二分法を基本に、「『近代的自我』により他を対象化し把握する力」は、自然科学や医学等様々な分野において進歩や発展をもたらしました。それはすばらしいことではありますが、他面でそれは「人間の力強さ」「健康であること」への過大な評価に繋がり、社会の進歩や発展に寄与しにくい「健康でない生命」の軽視に陥りがちになることは見やすいところです。生活が危機的状況になるほど、高齢者や障害者の存在意義がゆらぎ、社会ダーウイニズムに繋がる動きが顕在化してくるのも、ひとつには「人間の力強さ」「健康であること」への過剰な評価と関係しているようにみえます。では、それを克服する鍵はどこにあるのでしょうか。翻ればそれは、西洋人の自我(心の意識のあり方)が、「他に依存しない存在」として確立し、他から独立した主体性をもつ、ことにも関係しているようにみえますが、そのことについては後に詳述したいと思います。

 

   ② 発達と変化(横への発達)

    ⅰ<近代>と発展

「健康でない生命」が軽視されやすいことの理由のひとつは、「健康でない生命」が社会の進歩や発展に寄与しにくいことにあることは、先の指摘からも推察されることです。しかしながら進歩や発展は、人間にとってすべてでしょうか。想起したいことは、「進歩」とか「発展」「発達」の観念が重視されてくるのは<近代>になってからだと指摘されていたことです。一般的な意味でいわれる「発展」「発達」という言葉には、自己を完成させていく、いいかえれば完成された人格というものがあり、下からそこに段階的に近づいていくというイメージが強いこと、そしてこうした発達のイメージにあたって他者の存在が特段には意識されていないことにも再考の余地がありそうです。 

    ⅱ 変化(横への発達) 他者との関わりの中での発達

 近江学園、びわこ学園を創設した糸賀一雄は、人間がより難しいことができるようになるだけでなく、多様な能力を身につけたり発揮できる場面が広がって、人との関わりが広がり生活に幅が出てくることも「横への発達」だと指摘しました。また能力だけでなく、気持ちが育つ、価値意識が深まるなど、人格が豊かになっていくことも大切な「横への発達」と考え、力の獲得と人格の形成とを統一的にとらえる発達観を提起し、生活や人生が豊かになっていくことにつながる「横への発達」をめざすことが重要であると指摘しました。

高齢社会の中で増加してきている認知症や「ねたきり」の高齢者をはじめ、重度の障害をもつ人たちと、その人たちを介護する他者との間に結ばれる関係が、労働力としての有価値性重視から人間の尊厳を守る新たな発見の機会(場)になってきているのは見逃せないところです。私達はその関わりを通じて、人間が縦方向に上昇するだけでなく、お互いが横へも広がり、発展、成長することに気づかされることがあるからです。

 「成長すること」は、多くの場合、人間の縦方向の上昇に着目することと表裏一体の関係にあります。しかし重度の障害をもつ人との関わりを通じて、私たちは、人間が縦方向だけでなく、横方向へも「発展」「成長」していくことでより充実した生き方ができるのだということ、どんなにわずかでも横につながることでの新たな成長、発展の機会を見出していく、その質的転換を感じることが豊かさをつくるのだということ、そしてそのことを私たちは、永い間忘れていたことに気づかされます。糸賀一雄が、「この子ら(重度の障害をもつ子供達をさす。橋本注)世の光をではなく、この子ら世の光に」という言葉を残してから多くの時間が流れましたが、この言葉にこそ私達が今後を見据える原点が示されているといえないでしょうか。障害をもつ人と他者との関わりは、「人間の生命活動そのものとしての労働」を原点にすえた人間相互の関わりを取り戻す現代的な契機を含んでいるように思われます(②に関しては、橋本宏子「社会保障と未来社会への展望」p70及び同稿に記載の引用文献参照 神奈川大学評論 72号 2012年所収)。

  ⅲ Right to Development

  <注1>で言及したように、Right to Developmentという言葉は、1997年の国連宣言に含まれている言葉ですが、宣言の中では、集団としての発展という意味と、一人一人の人間が個人の尊厳を最後まで捨てない、排除されない、消せないという意味が含まれているとされますが、このことが上のこととどのような繋がりをもつのか、もたないのか、今後の検討課題のひとつと考えます。

 

(2)境界(間)への挑戦

   ① これまでの確認

   慢性病や難病のように「治癒」が難しい病への医療のあり方、障害年金でいわれる「治癒」や「固定」をどう考えるのか、神経症のように薬も手術も効果をもちにくい病への対応等々が抱える課題は、『近代的自我』の他を対象化して把握する力」に関係する問題であると同時に、我々がともすると二分法によって物事を考える傾向にあることへの再考を促しているようにみえます。障害者問題を解決していくためには、自・他の境界(間)への挑戦が求められてきているのではないでしょうか。

 

② 個と他者―全体的関係性について 

 教育学や心理学の領域において指摘されてきている子どもやクライアントを観察対象として、観察者と切り離す手法への批判は、客観的観察によって知見を得るという自然科学的な認識の重要性を認めつつも、それとは異なる視点からの、つまり「自分が他者の中に入ったものの見方」の重要性にも関心を向ける必要性を示唆しています。「自分が他者の中に入ったものの見方」は、観察者と観察される現象の間を切断するのではなく、重ね合わせるという意味では、境界(間)への挑戦のひとつといえるでしょう。

観察者と観察される現象とを明確に区別して考えることが不可能な場合があることは、現代の理論物理学(量子物理学)においても指摘されています。観察者も現象のなかに組み込んで全体的関係性を問題にしなくてはならなくなってきているということでしょう。では全体的関係性とはどのようなことでしょうか。それは、個人が個人として独自でありながら、そのなかにすべての人を含み、すべての人との関係性のなかに個人が存在している、ことを意味する、とされます。重要なことは、このような全体構造が共時的に存在しているということであり、人間の生命・生存を、原因と結果という継時的な連鎖だけで認識しないということであるといわれています。「共時性」についてはさらなる説明が必要になりますが、この程度の指摘に留めておきたいと思います。ここで思い出しておきたいことは、西洋人の自我(「近代的自我」ともいわれ、「西欧の白人成人男性」像さらには「市民法的人間」像すなわち「自覚的主体的人間」像とも同義といえるでしょう)が、「他に依存しない存在」として確立し、他から独立した主体性をもつ、と表現されていたことです。そして重要なのは、上記下線部分にいわれる「関係性のなかに個人が存在している」という状態とはそれはまったく異なっていることです。

  ③ 生存にとっての他者

   心理学者 ユングは、はじめ自我を「個人の意識体系の統合の中心である」と考えていましたが、無意識の世界の重要さと強力さを自ら体験し、自我を自分の中心とは考えられなくなっていったといわれています。このことは、「(「近代的自我」の)中心性の喪失」を意味し、自己(無意識)の重要性を示唆しています。自己(無意識)を形成しているは、他者(精神的存在としての自己)であるとユングはいっています。

 この「他者(精神的存在としての自己」という指摘は、上記の「個人が個人として独自でありながら、そのなかにすべての人を含み、すべての人との関係性のなかに個人が存在している」という表現に繋がるもののように思われます。

 

(3)注目される「複雑性」や「不完全さ」

 ① 「完結」(あるいは「成長」)の条件である「複雑性」や「不完全さ」

   上の「個人が個人として独自でありながら、そのなかにすべての人を含み、すべての人との関係性のなかに個人が存在している」という指摘は、人間は、環境や他者からの働きかけで自己を自己にしていく、つまり個としての人間(ひいては生物としての個体)は、自らの力だけで発展・成長するわけではなく、環境や他者との関わりを通じて、不完全な状態」の中で活動を展開し、かつ自己を「完結」させていく。一見矛盾するようですが重要なことは、個々人が、一人の人格をもった自己として、「完結」していく条件として必要なのが、むしろ「不完全さ」ではないかということです。人間が自己を「完結」(あるいは「成長」)させていくためには、環境や他者との相互作用を通じて、たえず「不完全さ」(フレキシビリティ)を維持すること、そのことに注目することは、「西洋<近代>の自我がめざした進歩と発展」とは異なる視点を提起することのように思われます。

 

 ② 治癒と固定に関連して 「複雑性」ということ

  人間は主観・客観の二分法によってものごと考えることを好むといわれています。治癒と固定という把握の仕方も二分法に依拠しています。二分法を超えて、治癒と固定の間にあるものをどう捉えるか。このことについての直接の回答に繋がるわけではありませんが、ヒントになりそうなことのひとつは、上で述べた「複雑性」ということです。一人の人間が、関係性を構築していく対象(ここでは、治癒とか固定が問題になっている対象)は、常に不完全かつ複雑なものであり、したがって双方(ここでは、私達と対象)が複雑であり続けることを保持(相互承認)することが、多くの可能性を磨耗させないためには重要だということです。「要素が不確定性、不完全性をもっているから秩序が発生する」のであり、「異なっていることによって、かえって秩序ができ、発展していく」という視点をあわせ持つことが、治癒と固定を考える上でも必要なように思われます((3)の記述については、橋本宏子「中間媒介組織としての社会福祉協議会」p78~80及び同稿記載の引用文献参照 橋本宏子・飯村史江・井上匡子編著『社会福祉協議会の実態と展望』日本評論社 2015年)。 

 上のことは、障害年金に関わる専門職自身が日常的な、生活者としての感覚を持って、関係性を構築していく対象(ここでは、治癒とか固定が問題になっている対象)と向き合うことにも通じることではないでしょうか。「新しい科学を生むには、科学そのものの変化と科学者の変化とが不可欠であり、ある意味必然です。さらにいえば、自然と向き合うという姿勢が生れることが、近代が依拠してきた世界観の見直しという、大きな問題に繋がるはずです」(注5)。

 

2、生存権(人間として生きる)を原点にー自由・平等<生存

 

(1)確認 考え方の整理

① 特殊近代西欧的な「人権」概念とされる「自由権を中心とする人権体系」は、「自覚的主体的」な人間が他者から侵害されない(「自由・平等」の重視)ということが、人間として生きる条件であるという考え方を表現しています。

② これに対して「生存権」を、あらゆる「人権」の根本基準とすることは、「人間として生きる」という点にアクセントが置かれることになります。

③ 人間としての本源的自然的な要求から発生する「人間として生きる」ことの要求のなかには、特殊近代西欧的な「人権」概念では包摂しきれないものがあるのではないでしょうか。

 

 (2)他者から侵害されないことが、人間として生きる条件であるという考え方と「人間として生きる」を根本基準とすることの違い

  前者の考え方は、「生存すること」「生存できること」は、むしろ暗黙の前提とされていて、他者から侵害されないことにウエイトが置かれています。「人間として生きる」ことに重心をすえる考え方にはあまり関心が示されていないようにみえます。この点にこそ、2つの考え方の基本的な相違があると考えます。

 

(3)特殊<近代>西欧的な「人権」概念では包摂しきれないもの

  ① これまでの確認

自然科学の進歩や発展が、資本主義経済の発展を促してきたことは否定できないでしょう。そして産業の自由活動を確保するために、市民法上の自由権、とくに財産権の保障という論理構造がとられてきたことも指摘されてきたところです。無限の進歩や発展を可能とする「人間への全幅の信頼」に裏付けられた「生存すること」「生存できること」への自信は、「財産」の所有と直接 間接に結びついていることが少なくないように思われます。

結果、そこでは、(進歩や発展あるいは「財産」所有との関係が希薄で)生存すること自体に課題をもつ人びとの「人間として生きる」ための多くの主張が、視野の外に置かれてしまうのではないか、という疑問が生じてきます。

 ② 十分でない人権保障

上では、特殊<近代>西欧的な「人権」概念のもとでは、「人間として生きる」ための多くの主張が視野の外に置かれてしまうのではないか、と指摘しました。以下の二点も「『人間として生きる』という視点からみた場合には課題も残されている」と考えます。その意味で上のことに関係する問題のように思います。

ⅰ 労働力の資本に従属する関係

先に指摘したように、現在実定法制度として定立されている人権体系には、自由権を中心とし、それに若干の「生存権」的要求を充たすための社会権を加味した構造をとるものが多いといわれています。では、「『生存権的要求を充たすための社会権を加味した」とはどういうことでしょうか。何が問題なのでしょうか。それは「人間として生きる」ための要求を充たすものではないのでしょうか。

資本制社会では、あらゆるものが商品という形態をとることになりますが、労働もまた然りです。資本制社会では労働もまた自由で平等な商品交換の文脈の中に位置づけられていることになります。しかし資本主義経済が成熟し、恐慌が繰り返されるようになると、雇用契約に象徴的にみられるように、自由・平等の名のもとに実質的な不自由・不平等が顕在化してくることになります。こうした社会的経済的背景の変化を受けて、1870年代頃から西欧各国ではいわゆる社会政策が普及してくることになりますが、社会政策を通じて生存権が人権体系のなかに包摂されたとしても、資本制生産関係、すなわち、労働者の資本に従属する関係を保障する(「商品」としての労働力を保障する)ことの中に組み込まれた人権体系を考えることは、そもそも論理矛盾となり、「人権擁護」として、人権「一般」を擁護する意義は、そこからは生じにくいのではないか等の疑問が残ることになります。

こうしたことからすると、「『生存権的要求を充たすための社会権を加味した実体法制度」は、特殊<近代>西欧的な「人権」概念のもとでは、「人間として生きる」ための多くの主張が、視野の外に置かれてしまう、その一例を示しているようにみえます。先取り的にいえば、「障害年金の要保障事由」に関連して、私が「稼得能力の喪失・減退」を中心として考えることに疑義を感じているのも、遡ればこのことにも関係しているように思います。

 

  ⅱ 地域で自立して生活する平等の権利に関連して

(ⅰ)河野さんは、あるべき障害者法においては、①差別禁止アプローチと②自己管理型支援の法部門(パーソナル アシスタンスを含む地域生活支援サービスの整備を意味すると考えられる 橋本注)が車の両輪として必須不可欠であると指摘しています(「障害法 創刊号」p20、24)。

(ⅱ)河野さんが「差別」「不平等」を起点としながら、(パーソナル アシスタンスを含む地域生活支援サービスの整備といった)障害者に対する国や社会の「合理的配慮義務」が求められる分野をも組み込んでいるのは、「社会モデル―人権モデル―法的人間像」についての河野さんの固有の理解が関係しているように思われます(付記1参照)

   (ⅲ)ところで河野さんも指摘しているように、障害差別解消法8条2項によれば、民間の事業者の合理的配慮提供義務は努力義務にとどまります。そこでいわれる民間事業者には、たとえば地域生活支援を担う民間の指定障害福祉サービス事業者(以下「サービス事業者」という。障害者総合支援法36条等参照)も含まれることになると思われますが、障害差別解消法8条2項を根拠に、サービス事業者への合理的配慮の請求権を直接導くことはできません。したがって民法の公序良俗(民法90条)、不法行為(民法709条)等を介して違法無効の確認を求め、損害賠償を請求する方法に依らざるを得ないことは、河野さん自身が指摘されるところです(「障害法 創刊号」p18参照)。

(ⅳ)また障害者基本法4条2項、障害者差別解消法7条2項、8条2項の「必要かつ合理的な配慮」は、条約上のappropriateの意味するところとは異なるもののようにも窺われます。生存権を基底とする人権を保障し、実質的自由・平等を確保するプロセスとするには、いくつかの媒介項が必要と思われます(付記1参照)。

  (ⅴ)アメリカでは、生存権・社会権といった政府の給付による直接的な権利保障(positive rightsへの保障)は、連邦憲法においては第一義的なものとしては実定法化されていません。そして連邦憲法の修正14条の直接的な解釈適用の困難な場合と連邦政府以外の平等侵害を防ぐためにCivil Right(公民権)の法理を発展させてきたという経緯があり、憲法上の人権論に公民権法をどのように組み入れるかということは、アメリカ合衆国という国のあり方に関係して説明が必要と考えられています。いずれにしても、ADA法(公民権法のひとつ)において合理的配慮(reasonable accommodation)義務が挿入されたのは、上のようなアメリカの背景があってのことに思われます。

  (ⅵ)地域で「自立」して生活することが、「人間として生きる」ことのひとつの姿だとすれば、そのために必要な地域生活支援を受けることは、生存権(人間として生きる権利)の問題なのではないでしょうか。合理的配慮義務の請求権を考えたとしてもその先には、(ⅳ)で述べたように、障害のある人が「人間として生きる」ことを充たしていく確かな方向はみえてこないのではないでしょうか。そこには取り残されるものがあるような気がしますが、どうでしょうか(注6)。

  (ⅶ)とは言え、生存権(人間として生きる権利)の問題として捉えたからといって問題がすぐに解決するわけではありません。しかし「人間として生きる」ことを基礎にすえることで、より確実な方向を見出す道筋が開けてくるように思われます。

「権利」という言葉は、人間の本源的自然的要求の意味で使われる場合と国家の実定法制度として規定された「人権」の意味で使われる場合があります。先にいう「人間として生きる」というのは前者の意味です。しかしこの考えには続きがあり、人間の本源的自然的要求としての<人間として生きる>ことへの要求は、日本国憲法の人権規定のなかに含まれている、具体的には憲法13条を根底におき、それを受けた憲法25条を初めとする憲法の諸規定に人間としての本源的自然的要求が含まれているとみています(後述)。障害者権利条約のいう人間の尊厳を最上位規範とみる考え方ともそれはどこかでつながっていくのではないかと考えます。

 

 (4)「人間として生きる」

先には「『人間として生きる』という視点からみた場合には課題もある」という観点から、ⅰ 労働力の資本に従属する関係の問題 ⅱ 地域で自立して生活する平等の権利に関連したところでの合理的配慮提供義務の問題 の二点をとりあげました。ここでは、「人間として生きる」ことにより直截的に接近してみたいと思います。

 

   ① 「人間として生きる」とは

あらためて考えてみたとき、「人間として生きる」とはどういうことなのでしょうか。「人間として生きる」という欲求は、人間としての本源的自然的な欲求から発生するものですから、具体的内容は千差万別です。これだと定義できるものではありませんが、テレジア・デゲナー(Theresia Degener 国連障害者権利条約特別委員会<2002~2006>に参加。国連障害者権利委員会前委員長の以下の指摘は、障害のある人が「人間として生きる」姿を如実に示しているように思われます。

② テレジア・デゲナーの指摘

 Tデゲナーは、国連の特別委員会の委嘱により執筆された著書(共著 Human Rights and Disability 2002年)の中で次のように述べています。

下記ⅰ指摘が注目されるのは、障害のある人個々人が、個々の健康状態や身体的特徴を包含したそのままの姿で「人間として生きること」を捉えていることだと思います。また下記ⅱも含蓄のある指摘ですが、この点については後で触れたいと思います。

ⅰ 人権モデルにおいては第一に、「人権がある一定の健康あるいは身体的状態を要件とするものでないこと」は確かである。これに対し社会モデルは、障害が社会的に構築されたものであることを説明するだけにとどまっている。First, the human rights model can vindicate that human rights do not require a certain health or body status, whereas the social model can merely explain that disability is a social construct.

 ⅱ 人権モデルは第三に、障害を生活の質を下げるかもしれない状態ではあるけれども、人間のひとつの姿であり、それゆえに人間の多様性のひとつとして尊重されなければならない」ものとして理解する Thirdly, the human rights model embraces impairment as a condition which might reduce the quality of life but which belongs to humanity and thus must be valued as part of human variation

 

③ 生理的、心理的な困難

 なお池原さんは、社会構造とは直接的な関連性の乏しい各人の機能障害による生理的、心理的な困難(苦痛を伴う機能障害や進行性の機能障害のある人々の固有の経験、苦痛や健康や死への不安)について指摘しています(「障害法 創刊号 p100、p102参照」。「人間として生きること」を考える上では落としてはならない視点だと考えます。

 

 (5)「障害年金の要保障事由」と「稼得能力の喪失・減退」

  障害のある人の「稼得能力の喪失・減退」を問題とすることは、突き詰めていえば稼得能力を喪失・減退する前の状態と(端的にいえば健常者と)、障害者を比較することになるのではないでしょうか。もっといえば、それは「人権がある一定の健康あるいは身体的状態だけを要件とする」ことにつながるのではないでしょうか。さらに問題なのは、「障害年金の要保障事由」を「稼得能力の喪失・減退」と結びつけて捉えてしまうと、そこからは当該障害者が、現状の健康状態や身体的特徴を包含したところで「人間として生きようとすること」を、「障害年金の要保障事由」と積極的に結びつけてとらえることができなくなってしまうのではないかということです(上の(3②のTデゲナーの指摘ⅱ参照)「障害年金の要保障事由」と「稼得能力の喪失・減退」とを結びつけて捉えることは、「個々人のそれぞれに則した権利保障」という昨今の国際人権の発展とも逆行することのように思われます<注2>。

1870年代頃から普及してくる社会政策を通じて生存権が人権体系のなかに包摂されたとしても、資本制生産関係、すなわち、労働者の資本に従属する関係を保障する(「商品」としての労働力を保障する)ことの中に組み込まれた人権体系を考えることは、そもそも論理矛盾となり、「人権擁護」として、人権「一般」を擁護する意義は、そこからは生じにくいことについてはすでに指摘しました。もとより、そのような人権体系のもとでも、生存権を基底とする人権を保障し、実質的自由・平等を確保するプロセスを構築する努力が積み重ねられてきたことは事実です。しかし昨今の国際人権の発展を踏まえ、「人間として生きる」ことの契機を新たに見出そうとしているにもかかわらず、障害年金の分野において、「稼得能力の喪失・減退」を起点として問題を捉えることは、方向を逆転させることのように思えるのですが、どうでしょうか。

 

(6)「人間として生きる」ことと日常生活、社会生活

 

 ① 問題の視角

    ⅰ 「障害年金の要保障事由」を「稼得能力の喪失・減退」と結びつけるのではなく、現状の健康状態や身体的特徴を包含したところで、人びとが「人間として生きようとする意欲」を、「障害年金の要保障事由」と積極的に結びつけて考えることが重要なのではないでしょうか

    ⅱ 障害程度要件の認定に関連して、「当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障の存在」が指摘されています(日弁連高齢者・障害者権利支援センター編「法律家のための障害年金実務ハンドブック」p78 民事法研究会 2018年。以下「ハンドブック」という)。

    ⅲ 現行法令に則して考えるなら、むしろ障害認定の評価基準とされている「日常生活能力」についての考察を、行政解釈の理解を超えて深め、それを基軸に発展的に理論を展開していくことが、解釈論を考える上でも、立法政策を論じる上でも重要ではないかと考えます。

    ⅳ ここでは上記の関心から、日常生活、社会生活を「人間として生きる」ことに結びつけて考えてみたいと思います。

   ⅴ これまで述べてきたことを踏まえ、私は「所有」を「人間の原点」とし、「人権」の中枢的概念とする考え方に対して、「人間の社会生活の基点に労働を置く」という考え方が、「人権」の理論的考察の鍵となると考えています。ここではその意味することについても、上記に絡ませながら考えてみたいと思います。

 

② 「人間の社会生活の基点に労働を置く」という場合の「労働」に関しての哲学的な把握は、枚挙に暇がありませんが、ここでは以下の二点をとりあえずの出発点として記述を進めたいと思います。

 ⅰ 労働は、言語活動、認識活動とともに、人間の基本的な活動である。

 ⅱ 労働を通じて、人間の基本的な精神的、肉低的諸能力、ならびにその総体としての人格が形成される。

 

 ③ 生存権を起点とするロックの人権体系

 

ⅰ 「生存権」を起点とした自由権・財産権の存在事由と限界の把握

 ロックは自然法思想家のひとりです。ここでなぜ自然法思想なのかということになりますが、煩雑になるのでその理由は注にまわしたいと思います(注7)。

ロックの人権体系は、「生存権」を起点として、自由権・財産権の存在事由と限界を把握しようとしたものと指摘されています。ロックは、人は生まれながらにして自由であり平等であるという観念から出発しています。そしてこの自由を保持するため政治社会を形成する、とされるわけですが、ロックにおいては、この自由は、抽象的な自由一般の概念ではなく、絶対専制権力からの自由であり、その自由は自己保存のための自由であるといわれています。ロックは、この自己保存権をしばしば「財産プロパティ」を保存するため、と記していますが、ここでいわれるプロパティとは、「生命・自由・財産(注 狭義の概念としての財産であり、主として不動産を意味するestateという概念を用いている)」と説明されています。ロックにおける「プロパティ」の重要性は、生命・自由・財産がプロパティとして統一的に把握されていることです。その意味で、ロックの人権体系は、自由権・財産権の存在事由と限界をおさえたうえでの「生存権」の成立条件を把握しようとしたものということになります。簡単にいえば、自由や財産は、「人間として生きる」ための条件としてあるということでしょう。では、「人間として生きる」とはどういうことなのか、が次に問題になってきます(ロックの人権体系についての記述は、前掲 下山「人権の歴史と展望」p30~44による)。

 

  ⅱ 生存のための労働

   ロックは、次のように述べています。狭義の財産の限界は、各自が本来所有する「身体」を動かすこと、すなわち「労働」により、その生命・身体の維持(自己保存のための自由)に必要な限度で認められる

 わかりやすいところで考えれば、そこでの「労働」は、「生命・身体を維持するために身体を動かすこと」ですから、農作業等がその典型的(原初的)かたちとなり、狭義の財産の保有は、例えば農作業をするのに必要な限度で認められるということでしょうか。

 

  ⅲ 人間の社会生活の基点に<労働>を置くということ

   上に指摘したようにロックは、狭義の財産を保持することの限界は、「労働」によりその生命・身体を維持(自己保存のための自由)するために必要な限度で認められるとして、本来的な欲望を充たす限度を指示しています。このことから、「ロックは、人間の社会生活の基点に労働を置いている」という考察がなされ、「所有」を「人間の原点」とし、「人権」の中枢的概念とする考え方に対して、「人間の社会生活の基点に労働を置く」考え方が、「人権」の理論的考察の鍵となる、という指摘がなされています。

 

 ③ ロックの労働を発展的に理解する

  ⅰ ロックは労働の目的を「生命・身体の維持」に置いています。そのことから農作業等が、労働の典型的(原初的)かたちとして浮上してきます。

  ⅱ ロックのいう「生命・身体の維持」を、現在の人権体系を理解するために、発展的に捉えるなら、「人間が人間として生きる」ことと同義といえないでしょうか。そうだとすると労働の目的は、「人間が人間として生きる」ことを維持することにあるといえるのではないでしょうか。

  

 ④ 「人間が人間として生きる」

  ⅰ 確認 「人間が人間として生きる」

「人間として生きる」とはどういうことなのでしょうか。「人間として生きる」という欲求は、人間としての本源的自然的な欲求から発生するものですから、千差万別であり、これだと特定できるものではありません。しかし、ロックが想定したような直截的な「生命・身体の維持」が基底をなしていることは忘れるべきではないでしょう。ここではそのことを前提とした上で(そのことに関係した形で)、「人間として生きる」上での他者(含む自然)との関わりの重要性に触れておきたいと思います。

 

  ⅱ 生存にとっての他者

「他に依存しない存在」として確立した「近代的自我」は、「市民法的人間像」、「自覚的主体的人間」像、「西欧の白人成人男性」像等々のなかにその姿を反映しているようにみえます。「自覚的主体的人間」像の理論的な創出が<近代>と関係していること、いいかえれば「自覚的主体的人間」像が資本制社会において必要とされたことは、すでに指摘しました。しかし実際には、社会関係を抜きにして抽象的人間を論じることは現実的ではありません。「他に依存しない存在」としての「近代的自我」のもとで「対話」や「神」が重視されてきたのは、「他に依存しない存在」をもう一度つなぎ合わせる意味をもってきたといえるでしょう(付記4参照)。

最近では、こうした「近代的自我」のもつ限界―そもそも人間は他者(含む自然)の存在があって初めて「人間として生きる」ことができる、もっといえば個々の人間は、それとして独立した存在であるわけではなく、全体的関係性の中で初めて存在するという視点の重要性も注目されてきていることは前述のとおりです。個人が個人として独自でありながら、そのなかにすべての人を含み、すべての人との関係性のなかに個人が存在している、ということでしょうか(上記 ② 個と他者―全体的関係性について 等参照)。

 

 ⅲ 「自己」の実現の場としての日常生活・社会生活

   上のことからすると、「人間として生きる」(生命・身体を維持する)ためには、他者(あるいは対象)との関わりが不可欠ということになります。そのことは表現をかえれば、人びとが個々の目標をもちながら、日々様々な他者(あるいは対象)とかかわっていく、そのかかわりを通じて、かかわるすべての他者(あるいは対象)が「自分のこと」になる、つまり「自己」の実現として、毎日のことが重みをもってくることを意味するようになることを示しています(「小説の中の『自己実現』の位相」p292~p298参照 河合隼雄著作集第Ⅱ期第2巻 心理療法の展開 2002年 岩波書店)。

 

  ⅳ 労働の目的は、日常生活・社会生活を「自己」の実現の場として維持すること

   本文ではこれまで、ロックの指摘を発展的に捉え、労働(身体を働かすこと)の目的は、「人間が人間として生きる」ことを維持することと捉えてきました。上記のことを踏まえれば、日常生活・社会生活を「自己」の実現の場として捉えて生きることは、まさに「人間が人間として生きる」ことのひとつの姿を示しているといえるのではないでしょうか。日常生活・社会生活を「自己」の実現の場と捉えて日々を生きる(生命・身体を維持する)ことは、労働の大きな目的のひとつということになりそうです。

 

 ⅴ 社会生活とは、日常生活とは

  「ハンドブック」は、「『社会生活』とは、必ずしも所得を伴うものに限らない。社会改善のための市民活動等、無償の社会参加活動も有償の活動と変わらぬ意義が個人のためにも社会のためにも存在する」「人の日常生活は、居宅内での生活・社会的生活・職務上の生活等から構成され、人とコミュニケートしたり、家事をこなしたり、趣味を楽しんだり、金銭管理をしたりしており、日常生活能力とはさまざまな総合的な能力のことである」と述べています(p79)。

  上の指摘を「自己」の実現の場としての日常生活・社会生活という視点と重ねあわせることによって、その意味することはさらに具体性を帯びてくるように思えるのですが、どうでしょうか。

就労支援施設や小規模作業所で働く場合はもとより、障害者が雇用契約により一般就労をしている場合であっても、就労が「自己」の実現の場としての日常生活・社会生活の維持に含まれることはいうまでもありません。働いていることだけで「障害年金の要保障事由」を欠くことにはならない、と考えていきたいものです(年金受給に係る所得制限の問題はでてくるかもしれませんが)。

 

  (7)当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障

 

    ① 問題の確認

     ⅰ Tデゲナーは、障害を「生活の質を下げるかもしれない状態ではあるけれども、人間のひとつの姿であり、それゆえに人間の多様性のひとつとして尊重されなければならない」と述べて、障害が生活の質を下げる可能性があることを指摘しています。

     ⅱ 上記のことは次のように捉え直すことができるのではないでしょうか。障害のある人の人生が、本人にとって「価値あるもの」となり、また(私達にとっても障害のある人の人生が)「人間の多様性を再評価する」ものになるためには、障害のある人の日常生活・社会生活が、「自己」の実現の場として維持されているという「生活の質」の担保が重要になります。障害はその維持へのバリアになる可能性がある、ということではないでしょうか。

  ⅲ 国際人権の動向や障害者基本法との整合性を考えると、わが国の現行の年金法(国年法・厚年法)を前提としても、「日常生活または社会生活上の支障」について、障害程度(状態)要件認定の際に考慮する実務上の留意が必要と思われると指摘されています(「ハンドブック」p79参照)。

  ⅳ 本稿は、「日常生活または社会生活上の支障」に係る実務上の留意を、上記ⅰⅱと絡ませたところで理解していく(捉えていく)ことを期待するものです。

  ⅴ 立法政策としては、上記ⅰⅱのような視点にたって、法体系や手続のあり方等を全面的に検討することが求められてくると思います。この点については、後に少し触れたいと思いますが、多くは今後の課題です。

 

 ② 個々の目標を判断する

     ⅰ すでに述べたことですが「人間として生きる」ためには、人びとが個々の目標をもちながら、日々様々な他者(あるいは対象)とかかわっていくことが重要になります。そのかかわりを通じて、かかわるすべての他者(あるいは対象)が「自分のこと」になる、つまり「自己」の実現として、毎日のことが重みをもってくることになります。

  ⅱ 本文では先に、「日常生活または社会生活上の支障」に係る実務上の留意を、((7)の①の)ⅰⅱと絡ませたところで理解していく(捉えていく)ことを期待するものです、と述べました。

  ⅲ 実務を念頭に置いた場合、日常生活・社会生活を「自己」の実現の場として維持していく上での「支障」の有無を判断するためには、人びとの個々の目標との関わりが重要になってきます。人びとの個々の目標が、どのようなものなのか、ということが問題になってくるということです。以下ⅳ~ⅵのことは、「個々の目標」と「自己」の実現を考える基本的な視点を提供しているように思われます。

     ⅳ 使用価値は「そのモノとはきりはなせない本質を指す」

  飛躍するようですが、アリストテレスは使用価値を「そのモノとはきりはなせない本質を指す」と定義していたといいます。アリストテレスの使用価値についての考え方は、中世やルネッサンス期においては、コミュニティや個人にとって「何が必要なのか」を判断する上でも大きな影響を与えたとされています。しかし19世紀の社会においては、使用価値ではなく商品の交換価値が最も重要な要素となり、このことが経済は無限に成長するという考え方に大きな影響を与えていくことになったといわれています(橋本 宏子「社会保障と未来社会への展望」p66及び同稿における引用文献参照 神奈川大学評論 72 2012年)。

ⅴ 生存のための労働と使用価値の類似性

  ロックは、狭義の財産の限界は、各自が本来所有する「身体」を動かすこと、すなわち「労働」により、その生命・身体の維持に必要な限度で認められると述べていました。ロックのいう「その生命・身体の維持に必要な限度」という指摘とアリストテレスのいう「使用価値は、そのモノとはきりはなせない本質を指す」という指摘には共通するものがあるように思いますが、どうでしょうか。

    ⅵ 何をしたいか、どうありたいか 

  アマルチア・セン(Amartya Sen)は、ニーズをgoods(商品 財産 物)への必要としてではなく、doings and beings(何をしたいか、どうありたいか)への必要として再定義すべきと述べているとされます(注8)。

 

 3、まとめ

 

(1)出発点の確認

本稿は、<近代>にかかる以下の二点を出発点とし、以下①②がそれぞれ「見落としてきたものは何か」を検討し、「障害問題」を考える手がかりとしようと考えました。

  ① <近代>と「西欧の白人成人男性」(近代的自我)についての課題

  ② <近代>と権利についての課題

 

(2)見落としてきたものは何か

 そこからえた結論を簡潔に述べれば、

① 上記①に対する結論 生存にとっての他者の存在の重要性 

その結論は、「他に依存しない存在」として確立し、他から独立した主体性をもつと言われる「近代的自我」に対し、「生存にとっての他者の存在の重要性」を考えることでした。

 ② 上記②に対する結論 自由権・平等権>生存権(社会権)から生存権>自由権・平等権への思考転換

その結論は、自由権・平等権を中心とする人権体系から、「生存権」を起点として、自由権・平等権・財産権の存在事由と限界を考えることの重要性でした。

 

(3)①「生存にとっての他者の存在」と②「生存権」を繋ぐものはなにか

  その繋ぎを求めて本稿では、

ⅰ 自然法思想家の一人であるロックが労働(身体を働かすこと)の目的を「生命・身体の維持」にあるとしていることに注目するとともに、ロックが人間の社会生活の基点に「労働」を置いていることを重視しました。

ⅱ こうして本稿では、ロックの考え方をふまえ、現在の人権体系を理解するために、労働と社会生活の関係に注目しました。その内容は、以下ⅲのとおりです。

ⅲ 「人間として生きる」(生命・身体を維持する)ためには、他者(あるいは対象)との関わりが不可欠ということになります。そのことは表現をかえれば、人びとが個々の目標をもちながら、日々様々な他者(あるいは対象)と関わっていく、その関わりを通じて、関わるすべての他者(あるいは対象)との関係が「自分のこと」として、自分の中に組み込まれていく、つまり「自己」の実現として、毎日のことが重みをもってくることになることを示しています。

ⅳ 本稿では、上記のことを「労働と社会生活の関係」さらにいえば、生存にとっての他者の存在>と<生存権>を繋ぐ説明としてとりあえず理解することにしました。

 

(4)本稿と障害年金

  ① 確認:「障害年金の要保障事由」と「稼得能力の喪失・減退」

  障害のある人の「稼得能力の喪失・減退」を問題とすることは、突き詰めていえば稼得能力を喪失・減退する前の状態(端的にいえば健常者)と障害者を比較することになるのではないでしょうか。もっといえば、それは「人権がある一定の健康あるいは身体的状態を要件とする」ことに繋がるのではないでしょうか。さらに問題なのは、「障害年金の要保障事由」を「稼得能力の喪失・減退」と結びつけて捉えてしまうと、そこからは当該障害者が、(当該障害が、当該障害者の生活の質を下げるものではあるかもしれないけれど)現状の健康状態や身体的特徴を包含したところで「人間として生きようとすること」を、「障害年金の要保障事由」と積極的に結びつけてとらえることができなくなってしまうのではないかということです。「障害年金の要保障事由」と「稼得能力の喪失・減退」とを結びつけて捉えることは、「個の尊重は人間の尊厳を確保するための不可欠な要素である」とする昨今の国際人権の考え方と矛盾するもののように思われます。

  ② 確認:「所得保障」の理解

  1986年の基礎年金制度の導入を契機に、労働能力が2級以上の認定についての尺度とされるかどうかは法的に非常にあいまいになりましたが、障害年金の主な目的が所得の喪失や減少に対する所得保障であることは否定できません。本稿ではそのことを念頭においてはいますが、①を踏まえ、「所得保障」を現状の健康状態や身体的特徴を包含したところで「人間として生きる」ための生活(費の)保障と考え、そのような視点から「所得の喪失や減少」を捉えたいと考えています所得の喪失や減少を、単に従前と比較して論じることはしないということです。

  ③  確認:障害程度要件の認定に関連して、「当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障の存在」をどう認定するか。

   ①②のことを前提とした場合、難しいのは障害程度要件の認定に係る問題でしょう。ここでは「検討の方向性」について考えていることを指摘しておきたいと思います。

 

   ⅰ 本稿のように日常生活・社会生活を「自己」の実現の場として捉えた場合には、当該障害者の日常生活・社会生活が、個々の目標との関わりでみた「自己」の実現の場としてどのように位置づけられているのか、その場合に、当該機能障害との関わりでどのような支障が生じているのか が問われることになります。

 

   ⅱ しかし、人間は(障害の有無に関わらず)、常に「近代的自我」に象徴されるような「自覚的主体的人間」として行動しているわけではありません。個々の目標との関わりでみた「自己」の実現の場としての意識をもって、日常生活・社会生活を生きている人ばかりではないということです。中には障害の故に、通常の言語で上記に関係する自分の思いを表現したり、形成したりすることが難しい場合もありうると思います。

 

   ⅲ 厚生労働省の障害認定基準は、国民年金法施行令別表の障害等級1級「日常生活の用を弁ずることを不能ならしめる程度」、同じく2級「日常生活が著しい制限を受けるか、又は日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」について、それぞれ評価を示しています(「ハンドブック」p78参照)。障害年金実務にあたる実務家にとって障害認定基準に精通することは重要ですが、他面、障害者権利条約が求める障害のある人の権利を保障するための実務基準としては、障害認定基準には問題もあることを念頭に、障害認定基準に批判的・懐疑的な姿勢で取組むことの重要性も指摘されています(「ハンドブック」p86参照)。そもそも障害認定基準とは、法律でも政令でもなく、行政内部の通達にすぎず、法規範性はなく、通常、裁判所の判断もこれに拘束されないと考えられています(「ハンドブック」p86参照)。

 

   ⅳ 上記のことを踏まえ、本稿では以下のようなことを考えています。すなわち日々障害年金の問題に取組んでいる実務家の方々が、障害のある方々とともに、障害認定基準とは別に、障害者権利条約が求める障害のある人の権利を保障するための実務基準(準則のようなもの)をつくり、障害認定基準に批判的・懐疑的な姿勢で取組む際の指針としていくことはできないかということです。実務基準の検討においては、通常、私達は日常生活・社会生活をどう過ごしたいと思い、どうありたいと思っているのか、障害等級1級・2級に該当すると思われる人々にとって、通常考えられる日常生活または社会生活上の支障とはどのようなものなのか、等々が上でいう実務基準(準則のようなもの)を考える上での課題になろうかと思います。

 

  ⅴ もとより、日常生活・社会生活をどう過ごしたいと思い、どうありたいと思うかは個々人によって異なります。またそれが見つからない、見つかりにくいことについてもすでに述べたとおりです。特に障害年金の請求者のなかには、障害の故に自分の思いを纏めたり、表現することが難しい人も少なくないように見受けられます(注9)。こうした場合にも、上で述べた実務基準(準則のようなもの)が当該障害者のニーズを判定するひとつの拠所となるのではないでしょうか。当該障害が、日常生活・社会生活を送る上での支障になるかどうかも障害によって様々でしょう。言いたいことは、障害年金給付は、受給資格者の請求の上にたって、個々の必要即応の原則(本人が日常生活・社会生活をどう過ごしたいと思い、どうありたいと思うか)により処理するのが基本原則で、障害認定基準はその個別事案処理の一応の内部的基準にすぎないということです。

 

  ⅵ しかし個々の必要即応の原則にたつといっても、「個々の障害者が求めるニーズを、障害程度要件の認定において具体的にどこまで反映させるか」については自ずと限界はあると思います。現状では、このあたりのことは不明確ですが、あるべき障害年金受給権の決定過程は、個々の障害年金受給権者のニーズを確認する手続として構成されることが望ましく、その過程には本人はもとより本人の側にたってそのニーズの存在を代弁する人びとの存在は不可欠ですが、あわせて(言葉の正確な意味での)保険財政の維持さらにいえば国民所得といった要素に規定された社会保険(障害年金)にあてうる基金との「一種のつきあわせ」も必要になると考えます(後述)。

 

 (5)障害年金の立法政策を考える前提として

 

 ① 河野さんとの対話の中で

かつて河野さんとの対話の中で、話が先に引用したTデゲナーの「人権モデルは、ある特定の健康状態や身体的特徴だけを是とするものではないことを擁護する立場にある」という指摘に向かったことがあり、それとの関連で私が、障害年金の要保障事由を「稼得能力の喪失・減退」と関連させて考えることへの疑義を述べたことがありました。その時河野さんは、正確には覚えていませんが「それはそうだけれど、T・デゲナーの指摘は(人的・物的サービスや医療保険、生活保護など)すべての領域に及ぶものだから、その指摘から<障害年金の(固有の)目的を捉えることはできない>」という趣旨のことをいわれました。まことに簡潔 明快で、一種の「感動」を覚えたことを思い出します。しかしながら私は、メロディー(T・デゲナーの上の指摘)は、一曲(人的・物的サービスや医療保険、生活保護などを含む社会保障制度体系全体)の中に流れるものでなければならないのではないか、という思いを捨てきれないでいます。本文では、障害年金の立法政策をきちんと考える余裕はありませんが、一曲の中にT・デゲナーの上の指摘がメロディとして流れるためには、少なくとも以下のことが明らかにされなければならないでしょう。結論に入る前にこの点について指摘しておきたいと思います。

 

  ② 障害年金の受給権を生存権の視点から考えるために、念頭に置かなければならないこと

   ⅰ 社会保障の制度体系全体のなかでの障害年金制度の占める位置を明確にすること

   ⅱ 本稿では、自由権・平等権を中心とする人権体系から、「生存権」(人間として生きる)を起点として、自由権・平等権・財産権の存在事由と限界を考えることの重要性を指摘しました。では、「生存権」という権利は、権利保障がなされた権利なのでしょうか。「権利(法)あるところ救済方法あり」(Coke)でなければならないはずなのですが。問題のひとつはここにかかってきます(注10)。

 ⅲ 従来の法の多くは財産の私的所有を中心核に置いています。これに対し社会保障は、人間のニーズ(思い)を中心核に置いています(人間として生きる、日常生活・社会生活を「自己」の実現の場として捉える、といったことは、人間のニーズ(思い)に関係してきます)。したがって、その可変性をもつ「思い」のニーズをどう扱うか、いいかえれば、その「柔軟性」という要素を法がどのように取り扱うかが社会保障法の基本問題のひとつとなってきます。つまり財産法的思考方式にもとづく権利概念とは異なった権利概念の把握が必要ということです

  ⅳ 社会保障の(生存権の)権利保障においては、先にも少し触れましたが「国民のニーズの一種の確認手続」ともいうべきものが、権利とその決定において重要な役割を果たすことになると思われます。

ⅴ 国際人権条約に規定された「権利」は、法規範としての記述としては完結的なものではなく、権利主体が参加し、構成していくもの(constructive)であり、その意味では、つねに権利主体に開かれた考え方が基底に置かれています。上の「国民のニーズの一種の確認手続」との関連性が注目されるところです。

ⅵ 憲法25条は、これまで貧困そのもの、又はその予防に対する所得保障との関わりで捉えられることが多かったと思います。障害年金も所得保障であることに変わりはありません。しかし「生存権」(人間として生きる)を起点におくという発想は、憲法13条の規定のされ方のなかに「生存権的基本権」の意味を読み取り、憲法13条を核規定としてそれとの関わりで憲法25条を含む憲法の諸規定を位置づけることによって「基本的人権」一般の問題を考究するという立場に依拠しています。重要なことは、「生存権的基本権」という発想は、憲法13条を<近代>自然法思想の単なる再確認に留まるものではなく、その発展的形態とみていることだと思います(注11)。

 以上のことを確認した上で、積み残したことのいくつかに言及しておきたいと思います。

 

③ 社会保障の制度体系

  社会保障の制度体系については、定まった理解があるわけではありませんが、ここでは社会保険、社会手当、社会福祉、公的扶助の各領域から構成されるものとして考えたいと思います。社会保険には、雇用保険・労災保険・医療保険・年金保険が含まれ、障害年金は、年金保険の一分野を構成するということになります。ここで言う社会保障制度体系の一環としての社会福祉は、児童福祉法や老人福祉法、身体障害者福祉法等に法的根拠をもつ人的・物的サービスの供給にかかる制度を総称する用語として使用されてきたといえるでしょう。しかし介護保険法や「総合支援法」(障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律)が成立してくる時代になると、現実の制度は上記のような社会保障制度の理解では整理が難しくなってきているのも事実です。介護保険法や「総合支援法」成立以前は、老人福祉法、身体障害者福祉法に基づき、国が公的責任において人的・物的サービスを供給していましたが、介護保険法や「総合支援法」における公的責任は、人的・物的サービスに係る費用の支給に関わるものであり、サービス自体の供給は、サービス事業所と利用者の「契約」で決まる構成になっています。また介護保険法や「総合支援法」は、老人福祉法、身体障害者福祉法と表裏一体の関係にもある、といった構造になっています。大筋でいえば社会保障の制度体系は以上のように纏められるかと思います。

 ④ 社会保障の法体系と生存権の関係 

  法学の領域においては、上のような社会保障の制度体系とは別に、社会保障法の法体系の構築をめぐる議論がなされてきました。ここでは、「法体系論と生存権の理解との関わり」に絞って、極めて簡単にこの点について言及しておきたいと思います。

 

ⅰ 社会保障法領域は生存権保障の一領域

 社会保障の法体系論を考える場合、社会保障法領域を生存権保障の一領域と位置づけ、その守備範囲を明確にする考え方があります。すなわち、社会保障は生存権保障の特殊的発現形態であり、その法体系としての社会保障法は生存権保障の具体化を志向する諸法制の一分野をなすという理解です。この考え方は、生存権保障の根拠を、憲法25条に求めています。そして社会保障制度は、社会保険、社会手当、公的扶助、社会福祉から構成されるとした上で、法的にみた社会保障は、「貧困もしくはその予防に対する所得保障<生活費の一部を保障する>)を目的とするもので、生存権保障の一領域を構成する、としています。そしてこの考え方では、社会保障の一環である社会保険は、(稼得能力の喪失・減退のゆえに)貧困化の契機となる障害や老齢に対し、一定の所得保障を行うことを目的とするものとされています。

 

   ⅱ 社会保障制度は、諸体系を連携させた一連のもの

これに対して、社会保障という制度は<人間として生きる>ための流動的で多様な要求と深く関連するところに成り立つ制度であることから、社会保障制度は一つの体系ではなく、諸体系を連携させた一連のものとして把握されなければならないとする指摘もあります。後者の理解のもとでは、社会保障は、いろいろの制度の連結されたもので、統一的原理の上に体系化されていないので、必ずしも一元的原理で捉えることは危険ということになります。

  

③ 憲法25条と憲法13条 生存権の位置づけに関連して 

    ⅰ 憲法25条を根拠とする考え方

ところで「社会保障法領域は生存権保障の一領域」といわれるときの生存権保障は、「憲法25条における生存権保障」という理解を前提としています。そこでは、生存権思想そしてその実定法化が市民法原理の反省ないし修正の法原理として登場してきたという歴史的意義を踏まえ、「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法25条1項)の保障と生活水準の「向上」「増進」への努力義務(憲法25条2項)こそが求められてくるのであり、重要なのはその保障(もしくは努力義務)を求められる国家権力の関与・責任の程度と範囲を確定すること、に関心が向けられています。

    ⅱ 憲法13条を根底におく考え方

    これに対し、上の②-ⅱにおいて、<人間として生きる>と表現されているものの内実は、国家の実定法制度として規定された「人権」ではなく、人間の本源的自然的要求を指しているように窺えます。しかし同時に②-ⅱを主張する論者は、国家の実定法制度である日本国憲法の人権規定のなかに人間としての本源的自然的要求が含まれていると考え、問題はどうすれば、日本国憲法の人権保障を要求することによって、人間としての本源的自然的要求を充たせるのかという点に関心を寄せています。具体的には、「生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利」を認めた憲法13条を根底におき、それを受けた憲法25条に人間としての本源的自然的要求が含まれているとみていることが窺われます。

この論者は、人権問題の原点に立ちかえって、人権問題を考慮すべき基準を考察するなかで、「人間が人間として生きる権利」は、生存権を基盤とし、それとの関連で、自由権・財産権が確保されることを要求する権利である、とみています。「人間存在そのもの」に着目するその理解は、生存権を起点として、自由権・財産権の存在事由と限界を把握しようとするロックの人権思想と重なるもののように窺えます。この論者が、「人間の尊厳」について規定した憲法13条を起点とするのは、ファシズムの政治と第二次世界大戦を克服した現代の「人間の尊厳」の思想が、近代自然法思想の単なる再確認に留まるものではなく、生存権を基盤とすることなくして、<人間として生きる>ことの保障はありえないことの実感と反省の上に成り立っていることを重視しているからです。「生存権的基本権」を基軸にすえ、「自由権の主体」が「生存権の主体」となることによって、人間は「現実的に自由になる」のであるから、「人間の尊厳が自覚されるのは、このような主体=人間でなければならない、ということになります。反ファシズムの抵抗を経て自認した「人間の尊厳」の思想が「主体性」を前提として「生存権」を要求するに至ったことに価値があるとされていることにも注意を払いたいと思います

こうした人間の尊厳の思想は、ただ国家の課題であるだけでなく、むしろ直接的に個人の課題であり、その課題自覚をもつ個人の結集体としての社会集団の課題でもあるため、国家が資本主義国家であれ、社会主義国家であれ、人間の尊厳に値する生活に反するような政治や制度をなそうとするかぎり、それに反対し批判すること、そのために個人や社会集団の抵抗運動をおこすことを要求している思想であり、それだけ権力に対して厳しさをもつ思想として捉えられています。

最後の指摘は、やや難解ですが、「人間の尊厳の思想は、ただ国家の課題であるだけでなく、むしろ直接的に個人の課題であり、その課題自覚をもつ個人の結集体としての社会集団の課題でもあるため~」の指摘は、本稿にも関係する個の問題、階層の問題そして「国家と社会」の関係を考える上でも示唆的なことに思われます(ⅰ、ⅱについては、橋本宏子「社会福祉(計画)における住民参加の再構築―アメリカの「統治」概念を手がかりに」p24~26及び同稿記載の引用文献参照 神奈川法学 51巻1号 2018年所収)。

 

 ⅲ 生存権の位置づけに関連して (②-ⅱの)補足

(ⅰ)確認

(②-ⅱの)考え方は、憲法13条の規定のされ方の中に、たんに「自由権的基本権」としての意味だけでなく、積極的に生存配慮する「生存権的基本権」の意味が含まれていることを指摘しています。このことは、日本国憲法の基本的人権体系の中核に「生存権的基本権」を据えていることを意味しています

(ⅱ)「生存権的基本権」と「自由権的基本権」

そのことから次に、核規定としての「生存権的基本権」との関係で、各種の「自由権的基本権」をどう位置づけるのかが問題になってきます。ここではこの点に立ち入って述べる余裕はありませんが、(②-ⅱの)考え方においては、「基本権の相互間に目的と手段の関係をつけて理解するのは、機能の面のみをみて、基本権の規範的意義を看過する考え方」に陥ることになると指摘されています。重要なことなので指摘しておきたいと思います。

(ⅲ)「生存権的基本権」と各種の「生存権」規定

核規定としての「生存権的基本権」と各種の「自由権的基本権」との関係に続いて問題になるのは、核規定としての「生存権的基本権」と各種の「生存権」規定(労働基本権、勤労権、生存権、教育権)との関係ということになります。ここでは本稿に関連するところで、狭義の生存権(憲法25条)と憲法13条の関係について(②-ⅱが)指摘していることを少しだけ紹介したいと思います。この考え方は、狭義の生存権(憲法25条)を「生存権の物質的経済的保障」との関わりでみているように思われます。その意味では、②-ⅰの考え方に近いようにみえますが、重要なのは「信仰、良心、出版、集会、結社などの私的生活=人間生活の自由に関するかぎりでは、生存権はその十分なる実現こそ自己の必須の要素として含むと共に、これらの自由権のいわば物質的経済的根底を確立する要請そのものとして意識される」と指摘していることだと思います。(ⅱ)(ⅲ)に共通していえることは、核規定としての「生存権的基本権」が意味するところの「人間存在そのもの」との関係で、各種「自由権的基本権」や各種「生存権」規定を解釈しようとしていることだと思います。このことは、「基本権の相互間に目的と手段の関係をつけて理解すること」とは異なることと考えます。ここで述べられていることは、日常生活・社会生活を「自己」の実現の場として維持していく上での「支障」をどのように捉えるかについても示唆深いものに感じられます(ⅲについてのここまでの記述は、下山 瑛二「沼田理論と『基本的人権論』」『沼田稲二郎先生還暦記念論文集 現代法と労働問題』総合労働研究所 1991年 に多くを依拠している)。

 

(ⅳ)現実の社会保障制度と所得保障

さて、現実の社会保障制度は、確かに「生存権の物質的経済的保障」というべき部分が多くを占めています。障害年金もその典型的な分野のひとつといえます。上記では、「障害年金の要保障事由」についていくつかのことを述べてきました。そのことをここでの指摘に絡めていえば、核規定としての「生存権的基本権」(憲法13条)が意味するところの「人間存在そのもの」との関係で、「生存権」規定(憲法25条)ひいては障害年金を解釈することにほかなりません。

(ⅴ)現実の社会保障制度の多様性

ところで現実の社会保障制度には、「生存権の物質的経済的保障」というべき部分以外のことが少なからず含まれています。児童福祉法や老人福祉法に規定される虐待に係る規定はその一例でしょう。介護保険法や総合支援法が導入されたことで、「人的・物的サービスの種類・内容・その供給量あるいは供給方式」に係る国の支援のあり方がみえにくくなり、明確でなくなってきていることは否めません。夜警国家のひそみにならえば規制行政の役割は限定的になりますが、介護保険法や総合支援法のもとで多様な主体により提供されるサービスの内容や質を確保するためには、国民の生存権を守るという視点にたって、「規制行政」をより積極的に再構成し実行することは、政府の後方支援の重要な役割となるはずです。ここでの指摘に絡めていえば、核規定としての「生存権的基本権」(憲法13条)が意味するところの「人間存在そのもの」との関係で、憲法上の諸規定だけでなく、法律(ここでは主に行政法)をも捉えていくことが求められてきている、ということだと思います。

(ⅵ)障害者保障と障害法 

上のような、いわば複雑な規定を包含する現実の社会保障制度が、法のあり様として妥当かどうかはともかく、現実の社会保障制度をみても、核規定としての「生存権的基本権」(憲法13条)が意味するところの「人間存在そのもの」との関係で、関係する憲法上の基本権(含む財産権)や法律を捉える場合の「生存権的基本権」の体現形態は実に様々だということになります。

河野さんは、市民法及び既存の社会法と障害法との関係を論じていますが(「障害法 創刊号」p20)、私の問題関心からすると、それは当該障害者が人間として生きる上での様々な課題に係る市民法や既存の社会法に係る法的課題を、核規定としての「生存権的基本権」(憲法13条)との関係でみていくことのように思われるのですが、どうでしょうか。 

このような考え方からすると、障害法(私の言葉でいえば障害者法)は、当該障害者が「人間として生きる」うえでの流動的で多様な要求と深く関連する形で、個々にその具体的姿をあらわすもの」であり、「諸体系を連携させた一連の生存権保障ともいうべきもの」のように思われますが、どうでしょうか。こうした理解は、上記②の ⅱ 「社会保障制度は、諸体系を連携させた一連のもの」という理解と重なるところが少なくありません。

障害年金は、年金を通じた生活保障の視点と障害者の権利保障の視点を総合的に統合して権利論を組み立てる必要があると思われます。(社会保障を含む)諸体系を連携させた一連の生存権保障と障害者保障(当該障害者が「人間として生きる」うえでの流動的で多様な制度的要求)を重ね合わせることは、上のような権利論の組立てにも資するとことがあるように思われます(注12)。

 

(ⅵ)1970年代以降の国際人権の動向は、個(individuality)の尊重が、人間の尊厳を確保するうえで不可欠とする考え方が深まりを増してきています。当該障害者が人間として生きるうえでの様々な課題に係る市民法や既存の社会法に係る法的課題を、核規定としての「生存権的基本権」(憲法13条)との関係でみていくという視点は、こうした国際人権の動向とも考え方において重なるものをもつように思います。<注2>参照

 

(6)社会保障法というものの考え方 

 先に、次のような指摘をしました。

障害程度要件の認定に関連して、「当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障の存在」をどう認定するか、難しいのはこの認定に係る問題だと思います。

ここでは立法政策も視野に入れながら、この問題にかかわることを補足しておきたいと思います。

  ① 社会保障法の特殊性 

従来の法の多くは財産の私的所有を中核に置いています。これに対し社会保障のような人間の生存を保障する権利概念の中には、人間のニーズ(思い)を中核に置いているものが少なくありません。そこでは厳格な権利概念で把握できない社会保障給付にあてることが出来る基金を想定しても、資源の有限性という制約要因が働き、しかも絶えず変動するところの要素に対峙せざるをえないことから(注13)、権利概念をめぐる<法の柔軟性>が求められ、財産的思考方式に基づく権利に求められるような権利概念の厳格的規定性を求めることが難しくなります。

その可変性をもつニーズをどう扱うか、いいかえればその「柔軟性」という要素を法がどう扱うかが社会保障法の基本問題の一つとなります。ここに法学のなかで社会保障法が占める位置の特殊性があるように思います。「当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障の存在」をどう認定するかの問題も、その「柔軟性」という要素を法がどう扱うか、の問題を避けてとおることはできないように思われます

 ② 確認手続の重要性

  国民の生存の権利は、多分に行政主体の決定に依存し、その決定の枠内での権利性でしかないのが現状です。障害年金の受給に係る権利も例外ではありません。しかし障害年金とは、憲法25条に基づき障害を理由とした生活の安定が損なわれることを防止し、障害に関して必要な給付を行うものです(国民年金法1条)。この規定をみても、国民の生存の権利(障害年金の受給権)は、現状のように行政主体の決定の枠内での権利ではなく、逆に行政主体の決定は、国民の生存の権利保障の一手段にすぎないはずではないだろうか、という疑問が生じてきます。障害年金に係る権利が、国民の生存の権利であるならば、国民の生存権保障のあり方のひとつとして、「国民のニーズの一種の確認手続」ともいうべきものを制度化し、障害年金の受給権者の要求を中心におき、行政主体の主張も聞きながら決定を導きだす「権利と決定に至るプロセス(手続)」に解決の糸口を見出すことが考えられてもよさそうに思います(①②の考え方は、下山 瑛二「サーヴィス行政における権利と決定」『人権と行政救済法』 三省堂 1979年 所収 に依拠するところが大きい)。

  ③「個々の当事者の関与(engagement)と合意形成の確認手続」

確認になりますが、人権の主体自身の関与・承認を欠いたところでの基本的人権はありえないことからすれば、上のプロセス(手続)においては、人権の主体である受給権者の考え(思い)が基軸とされなければならないことは重要です。行政主体の主張は、国民の生存の権利保障の確認手続に組み入れられるものであっても、中心となるのはあくまで本人の主張(ニーズ)だと考えます。そこに「国民のニーズの一種の確認手続」の意味があると考えます(注14)。「確認手続の重要性」に通底すると思われる考え方を上げれば、以下のとおりです。

 

 ⅰ 「国際人権条約に規定された権利は、法規範としての記述としては完結的なものではなく、権利主体が参加し、構成していくもの(constructive)であり、その意味では、権利主体に開かれた考え方を基底に置いている」ことをあらためて指摘しておきたいと思います。

ⅱ 「公共的に対応すべき生命のニーズをどう解釈し、どう定義するかは、行政に委ねられるべき仕事ではない。生命のニーズが公共的な対応にふさわしいかどうかを検討し、それを定義していくことは、まさに公共的空間における言論のテーマである」(齋藤純一「公共性」p63 岩波書店 2000年)とも指摘されています。 

 

 当面は、現状の審査手続 審査請求 再審査請求を「ニーズの一種の確認手続」の視点から批判的に検討し、立法政策に反映していくことが望まれます。

 

(7)社会保障の制度体系と障害年金

 障害程度要件の認定に関連して、「当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障の存在」をどう認定するか、に関連して最後に指摘しておきたいのは以下の点です。

「ハンドブック」は、「年金制度の主な目的は所得の喪失や減少に対して、所得保障を行うことであるが(注15)、障害年金では、障害ゆえの日常生活・社会生活上の不利益に対する補填(必要な援助者への費用等)も目的としている」(p79)と述べています。

本稿においても、「必要な援助者への費用等」は、障害年金における「当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障」の視点から捉えたいと考えます。仮に「必要な援助者への費用等」が、他制度(例えば、総合支援法等)から支給されているような場合には(現状は違いますが)、その「証明責任」(当該費用が、当該障害者に支給される法令の根拠等の提示)は行政側が負うということになると思います。

 

河野さんは「研究会」で、「障害年金の役割」と「障害に起因する費用の保障」という、もう一つの制度の役割を仕分けすることの重要性を指摘しています。  

その上で「障害年金の役割」については、「障害者の生活保障」あるいは「労働収入の喪失に対する生活費の保障」さらには(障害年金の目的と関連づけたところでの)「稼得能力の喪失にたいする代替所得の保障」という言葉で表現されています。

しかし障害のある人個々人が、個々の健康状態や身体的特徴を包含したそのままの姿で「人間として生きること」を重視する本稿の立場からすると、障害年金の役割が「障害者の生活保障」にあることは間違いないとしても、その内実を「労働収入の喪失に対する生活費の保障」あるいは「労働収入の喪失に対する生活費の保障」として把握することはできません。障害年金の役割は、障害のある人個々人が、個々の健康状態や身体的特徴を包含したそのままの姿で人間として生きるために必要とされる生活費の保障にある、としか考えられないからです。それはいいかえれば「障害者の所得一般の保障の役割を障害年金にやっぱり期待している」ことになるでしょう(「」内は、「研究会」において河野さんが日弁連の「ハンドブック」への評価に関連して使われている言葉です。ここではその言葉をそのまま使わせて頂きました。もっとも「ハンドブック」と本稿の立場もすべて同じというわけではなさそうですが)。

河野さんはまた、「障害年金の役割」と「障害に起因する費用の保障」を峻別した上で、「障害に起因する費用の保障が充実すれば障害年金ももっと障害者の生活保障に寄与することになるのではないか」と述べています。河野さんの顰にならえば、私も(他制度において)「障害ゆえの特別の出費に対する保障」や「障害者に係る医療保障」あるいは「人的・物的サービス」の充実等が実現すれば、障害年金は「もっと障害者の生活保障に寄与することになるのではないか」と考えています(注16)。

 

 

 

 

 

 

 

付記1 河野さんの基本的な考え方

 

  1、河野さんの「社会モデル」の理解と障害年金の要保障事由

本稿本文にも引用したところですが、表題のことに関連して河野さんは、「ICFにおける障害の構造的な捉え方を踏まえ、そのうえ障害者権利条約に定められたように『障害者は機能だけではなくて、社会的障壁との相互作用によって、一般の市民と同じように地域社会で自立して生活することを、あらゆる面で妨げられている』という障害の理解に則して、稼得能力の喪失・減退(すなわち障害年金の要保障事由)の有無・程度を認定する方式へと改革することだと理解しています」と述べています(下線は橋本のもの。本稿において以下同じ)。

 

 2、障害者権利条約 障害者の法的人間像 障害法の基本原理の主柱

   ① 上記において河野さんが、「障害者権利条約に定められたように」というときの、障害者権利条約は、主として2条、5条、19条を指すものと思われ、河野さんが考える障害法の基本原理の主柱となっていると考えられます。河野さんは、障害法とは固有の法領域からなる「新たな社会法」部門であると定義していますが、障害法についてのもう少し詳しい説明、社会法ならびに「あらたな社会法」(「新しい社会法」)についての説明は、(注4)に譲ります。

② 上記の障害者権利条約の諸規定が、「障害法の基本原理」とされるのは、河野さんが捉える「障害法における法的人間像」に関係しているといえるでしょう。

   ③ 河野さんの「障害法における法的人間像」は、「機能障害と社会的障壁との相互作用により社会参加を妨げられており人権の完全かつ平等な保障を必要とする人間像」(「障害法 創刊号」p16参照)として把握されており、河野さんの「研究会」での発言とも符号しています。

  

3、社会モデルと人権モデル

(1)社会モデルを超えた人権モデル

 ① 「社会モデルの観点からみた障害年金のあり方」という表現からすると、河野さんは社会モデルを基軸として、障害年金の問題ひいては障害法の問題を捉えているように窺えます(なお下記(2)もあわせ参照)。

   ② これに対し近年では、障害者権利条約が前提とする障害の理解について、「社会モデルを超えて人権モデルを提示する見解」が有力であるともいわれています(本文の池原弁護士の考え方 参照)。

(2) 河野論文における「社会モデル、人権モデル」の理解

 ① 社会モデル―人権モデル―法的人間像

ⅰ 河野さんに伺ったところによると河野さんは、「『社会モデル―人権モデル―法的人間像』が捉えようとする対象は異なっている。すなわち『社会モデル―人権モデル―法的人間像』は、それぞれ『障害とは何か―障害者の権利とは何か―障害法の法主体と法原理とは何か』を表す概念である。これら三概念を相互に関連するものとして捉えなおすことは有益ではあるが、同じ次元の概念として対比することはできないもの」として理解されているように窺えます。河野さんは、こうした理解にたって社会モデルを基軸としつつ、人権モデルもとりいれながら、「障害法の法主体と法原理」を構築されているように思います。

 なお医療モデルは、形式的平等(formal equality)、社会モデルは実質的平等(substantive equality )といわれるのに対し河野さんは、障害人権は従来の平等論に対する新たな平等論が必要であるとされ、変革的平等(transformative equality)の視点にたつことの重要性を唱えられている、と理解しています。新たな平等(差別禁止)とは、障害者個人と障害者集団の両者を平等(差別禁止)の保護の対象(ターゲット)として、社会構造の転換に迫ることを目的とするものとして把握されている、と考えられます。

 

ⅱ 河野さんは、「~障害法における法的人間像は、社会全体の仕組みによる構造的な不利益(従属としての障害)を受けている集団的人間像であるとともに、アマルティア・センの潜在能力アプローチによって解き明かされた『人間の多様性を具有する人間像』として捉えられるであろう」(「障害法 創刊号」p16参照)と述べています。普通に理解すると、社会モデルの捉える人間像は「前半部分」であり、「アマルティア・センの~」の以下の部分は、人権モデルの捉える人間像に近いように思われます。河野さんのなかで、「前半部分」「後半部分」が融合されているのは、『社会モデル―人権モデル―法的人間像』という河野さんの固有の理解が関係しているように私には思われます。

 

② 平等と地域生活支援サービスの整備「義務」

河野さんは、「障害法における法的人間像」は、「機能障害と社会的障壁との相互作用により社会参加を妨げられており人権の完全かつ平等な保障を必要とする人間像」であるとしています。そこでは、公的・私的な生活の重要な場面への参加が制限されてきた障害者の健常者との「差別」「不平等」が問題とされている、ことになります。

 だとすると、差別禁止に係る問題、さらには参加の問題までは河野理論の視野に入るとしても、さらに「医療・教育・就労等の福祉サービスに係る分野」(積極的な福祉サービスの給付の提供を求めること)が、平等を基礎としながらなぜ論理的に包摂できるのか(なぜ説明が可能なのか)が、今ひとつわかりにくいことになります(整備の要求は、平等の要求だけではなく、それにプラスする権利の実現を求めることになるからです)。河野理論が「差別」「不平等」を起点としながら、障害者に対する国や社会の配慮義務を組み込んでいるのは、私の理解では、河野さんが障害のあるアメリカ人法(Americans with Disabilities Act of 1990:ADA 以下ADA法という)を通じて障害者権利条約2条に反映されている「合理的配慮」(reasonable accommodation)に注目して論理を組み立てているからであり、それを可能としている背景には、①のような河野さんの固有の理解があるように思われます。しかし私が十分に理解できているわけではありません。

 

(3) 合理的配慮(reasonable accommodation) 補足

 ここで「合理的配慮」について、「青木研究会」での青木宏治さんの説明を、私の責任で纏めておきたいと思います。青木さんの説明によれば、日本における「reasonable accommodation」の理解には、アメリカにおけるそれとはかなり異なるものがあるように思われるからです(ADA法ならびに障害者権利条約2条の「合理的配慮」については、長瀬修・東俊裕・川島聡編「増補改訂 障害者の権利条約と日本 概要と展望」生活書院 p42、p45~p58も参照)。

① 障害者権利条約2条 英文

 

 “Reasonable accommodation means necessary and appropriate modification and adjustments not imposing a disproportionate or undue burden, where needed in a particular case, to ensure to persons with disabilities the enjoyment or exercise on an equal basis with others of all human rights and fundamental freedoms;

 

 ② “Reasonable accommodation” を合理的配慮と訳すことは適切ではないのではないか

ⅰ その理由

   (ⅰ) 日本語としての配慮には、「心遣い」「気遣い」のような心の持ち方を表す意味がつよい。

   (ⅱ) したがってaccommodation=配慮という日本語訳は、権利保障の基準になりにくい

   (ⅲ) 英文のaccommodationは、法的規範とりわけ人権保障の効果をもつ言葉として使用されている。

  ⅱ 英文のaccommodation

    (ⅰ)accommodationは、条約、アメリカ法では、法規範とりわけ人権保障の効果を持つ用語として使用されている。

    (ⅱ) 英文のaccommodationは、necessary and appropriate modification and adjustments

   (ⅲ) すなわち、障害をもつ人の権利・自由の実現のために「必要かつ適切な調整と適応」を意味する。

   (ⅳ) アメリカの教育裁判、公民権法裁判の中で散見されるaccommodationには、いろいろな措置、行為が含まれている。Accommodationについては条文の中では、modification and adjustmentsが挙げられているが、もっとひろくcustoms, environments, provisions, requirements, standards なども対象とされている。具体的には、障害をもつ子どもへの車いす対応の通学バスの準備、大きな文字の教材、パソコン、手話通訳者の配慮、透析患者のための弾力勤務時間の設定等も含まれている。

   (ⅴ) 新しい定義用語の創設

     障害人権法として、「障害年金法研究会」等社会運動の主体の側が、 “Reasonable accommodation”についての新しい定義用語を創設することも考えられる(「研究会」では、仮にということで、配慮義務・配慮調整措置といった案も出た)。   

   (ⅵ) 国際条約は基本的には国が義務主体となるので、権利主体の享有する権利内容を明確にする文書等は別に準備する必要がある。

  ⅲ reasonable

    (ⅰ) 英文のreasonableは、not imposing a disproportionate or undue burden

    (ⅱ) not imposing a disproportionate or undue burdenは、政府訳では「均衡を失した又は過度の負担」となっている。法律用語としては、disproportionateは目的・効果の均衡の欠如か、比例原則に反するという意味で使い、undueは目的や基準を外れた不当という意味で使用するが、条約の解説書などでは、国の財政状況、国民の意識なども含む政策的考慮も入るとなっていることからすると政府訳でもよいかということになる。

    (ⅲ) 合理的というのは、施策者の政策判断の基準・理由であり、人権保障の範囲と義務を規範化するためのものである。

  ③ 人権論としては、

  ⅰ まず、necessary and appropriate accommodationが保障されているか、権利侵害がないか、をはっきりさせる基準を創ること(ステップ1)

  ⅱ その後、政策としてreasonableを考慮しうるかを審査すべきである(ステップ2)。

   (ⅰ) 合理的(reasonable)とは、not imposing a disproportionate or undue burdenの範囲で実施するということである。

   (ⅱ) accommodationの日本語訳である「配慮」においては、権利・自由の保障のために不可欠なものであることが、十分に表明されておらず、reasonableが、施策者側にそこそこ正当化理由があればよいかのようなニュアンスをもっている。

  ⅲ 以上のステップをふまえることが、人権論としては重要ということになる。

 

 ④ 障害者基本法4条2項、障害者差別解消法7条2項、8条2項の「必要かつ合理的な配慮」の意味について

  上の障害者権利条約の理解からすると、障害者基本法4条2項、障害者差別解消法7条2項、8条2項の「必要かつ合理的な配慮」は、条約上のappropriateが意味することとは異なるようにみえる(平等保障の憲法審査として人権侵害とならない正当化として合理的な範囲を示すものとして使うことが可能なようにも推測できるが)。立法過程を調べて確認する必要がある。

 

付記2 「自覚的主体的人間」の創出と<近代>との関わり

 

① <近代>という世界史的区分のメルクマール

ルネッサンス・宗教改革・市民革命は、<近代>という歴史区分の成立と密接に関連しているといわれています。

  ② 「自覚的主体的人間」創出の契機

①にあげたいずれもが「自覚的主体的人間」を社会的に創出するための契機であったという点に着目して<近代>成立のメルクマールとされています。また市民革命と並んで産業革命も、「<近代>とそれ以前を分かつ分水嶺」であったといわれていますが、その産業革命に先行した技術革新の進展は、自然に対峙する人間のあり方(自然に対する人間の優位。自然/神の意のままに行われるべきものではなく、人間の主体性の方に価値を置く)に大きな影響を与えていくことになったと考えられます。神の前にまず「人間ありき」とするルネッサンス(renaissance 再生)の思想、神と人間の関わり方にも通じる宗教改革等々と考えてみると、これらが「自覚的主体的人間」を社会的に創出するための契機であったということがなんとなく見えてくるような気がします。なお、後に触れる自然法思想は、市民革命に決定的な影響を与えたといわれています。

  ③ 資本制社会において必要とされた「自覚的主体的人間」像 

   資本制社会を打ち出した市民革命のイデオロギーそのものが、自由・平等を本性とする自覚的主体的人間像を必要としたのはなぜなのでしょうか。資本制社会は、なぜ自由・平等な「自覚的主体的人間」像を必要としたのでしょうか。資本制社会では、労働力さえも、商品という形態をとることになり、あらゆる社会関係は、自由な等価交換の法則の貫徹によって、商品形態で覆われてくることになります。そこでは、商品の所有者はすべて自由であり、所有物を処分する主体性が確保されていることが、自由・平等ならびに所有というイデオロギーが資本制社会の基底をなす大きな理由のひとつになったと考えられています。(注3)もあわせ参照ください。なお専門的になりますが、下山 瑛二「沼田理論と『基本的人権論』」『沼田稲二郎先生還暦記念論文集 現代法と労働法学の課題』p59 総合労働研究所 1991年 もこの点に関係し重要と考えます。

 

付記3 「従属としての障害(者)」の形成と「体制的な生活阻害」

 

 1、一定の社会的集団(階層)としての理解について

 (1)一定の社会的集団に付加される社会的身分(地位)としての障害(者)の把握

河野さんは、「障害者とは、一定の社会的集団に付加される社会的身分(地位)にあたるが(憲法14条1項参照)、この社会的身分の特徴は、社会システムに置いて構造的に生活上の不利益を付加されてきた点にあると考える」と述べ、このような社会的身分(地位)としての障害(者)を「従属としての障害(者)」と定義しています(詳細は、「障害法 創刊号」p15参照)。

(2)「階層」あるいは「集団的人間像」に対する池原さんの積極的評価

  障害のある人の人間像を「システム化された不利益が特定の機能障害に付加された者」として把握する河野論文の指摘について、池原さんは次のように述べて積極的に評価しています。(河野さんの把握は)近代市民法の抽象的人間像を具象化するものであり、その者たちを「階層」あるいは「集団的人間像」として把握すべきものとしている点で近代市民法が市民である人間をあえて社会的文脈から切り離して構成した個人主義の現実との乖離を超克する可能性を秘めているように思われる(「障害法 創刊号」p98)。

 

2、「社会的生活被(阻)害」像と「一定の階級的人間」という理解

 

 (1)「社会的生活被(阻)害」=「障害の社会モデル」

河野さんは、「社会的生活被(阻)害」あるいは「障害の社会モデル」という捉え方を基本としたうえで、障害法における法的人間像を具体的に把握し、市民法および既存の社会法との対抗:補完関係を再考する、と述べています(「障害法 創刊号」p11)。

(2)「社会的生活被(阻)害」像と「一定の階級的人間」という理解

  ① 「社会的生活被(阻)害」像 

河野論文の上記の問題意識は、社会生活のなかで人間の尊厳に値する生活の営為が何らかの点で阻害を受けていること(阻害とは、損害を受けるというほど当事者、内容について特定的に語りえない状況)に着目して提起されているものと思われます。河野論文のいう「階層」あるいは「集団的人間像」が、「一定の階級的人間」という視点から理解されているものなのかは河野さんに確認する必要がありそうですが、本来の「阻害」は、体制的な生活阻害を直視したものであり、「社会的生活被(阻)害」像は「一定の階級的人間」という理解を背景としていると考えられます(「障害法 創刊号」p11)。

   ② 資本制生産様式の確立と「階層」としての障害者の形成

  上記の最後に記した問題は、河野さんが指摘する「従属としての障害(者)」の形成に関係しているように私には思われます。言い方を換えれば障害者の「階層」としての形成は、資本制生産様式が確立し、やがて社会諸関係が商品交換の網の目で覆われ、制度的にその経済構造が保障されてくる過程と関係しているのかどうかということです。

 

 3、私の問題意識

  私の問題関心は、さしあたり個々の障害者に向けられていますが、それと同時に(あるいはそれに先立って)障害者を「階層」として把握することが適切なのかどうかという問題です。もう少し正確にいえば、「階層」としての障害者の出現が、資本制生産様式の確立と関係していることは間違いないとしても、障害者の生活が「障害者問題」になってくる理由を考えるためには、「社会的阻害」の次元を超えたさらなる掘り下げが必要なのではないか ということです。具体的には、本文で述べたように「体制的な生活阻害」の問題は、(もっと他のことも関係しているのかもしれませんがさしあたり)「西欧の白人成人男性」像として象徴される「近代的自我」の特質にまで思考の範囲を広げて考えてみないと納得のいくところまで思考が広がってこないのではないかということです。「階層」という把握は、「社会的阻害」としての理解と関連させた理解のように思われますが、もし、「社会的阻害」の次元を超えて問題を掘り下げてみるなら、「階層」の問題は、ふたたび「個」の問題に戻る、正確には「個」と生存における他者の問題に深化していくことになるのではないか、まだ漠然としてですがそんなことを考えています。

 4、参考

 河野さんは、先行研究(Samuel R. Bagenstos)に依拠して「従属としての障害(者)」(disability as a subordinated group status)という定義を使用するとしています(「障害法 創刊号」p15)。

 「青木研究会」での青木宏治さんの指摘によれば、アメリカ合衆国の司法審査、違憲審査基準においては、subordinated class に入るということは、(違憲審査基準における)suspected  classになるということであり、結果subordinated groupに分類されるということを意味している。suspected  classになると、suspectable(疑わしい、人権侵害があると推定される)集団であるということになり、厳格な審査基準が適用され司法審査が厳しくなるそうです。この指摘からすると、(差別を受けている障害者、特に(外にあまり出てこない重篤な個々の障害者も全て含めて集団で)障害者への差別を合衆国憲法の修正44条違反平等違反にのせていくためには、厳格に審査するアメリカの違憲訴訟論としての構成が必要になるため、(Bagenstosにおいては)subordinated groupであることが強調されているようにも窺えます。青木さんの教示によれば、アメリカ憲法における「平等」は、集団に対するもので、集団的にしか保障されないということのようです。人種だとか女性だとか障害者の場合、(上のような試みが効を奏さない限り)集団では捉えられないので、個々人に対する救済が必要になり、例えば<注1>でのミッシェル・アシュレイ・シュタインの指摘が示唆するように、個々人に対する救済のためには(個々人のhuman dignityを認めるためには)、人権モデルを通じて、developmentという発想やヌスバウムのような発想が必要だということに繋がることになりそうです(なお、青木さんの教示によれば、Bagenstosは、アメリカの障害者の権利要求において、人権・憲法訴訟をターゲットにしておらず、公民権法(Civil Rights Act)の訴訟として取り組んでいるということです。彼の障害法のテキストもDisability Civil Rights Lawとなっています。Subordinated groupという法的地位は、憲法の平等原則のもとでただちに保護されるのではなく、Civil Rights Actでは訴訟資格に該当するということです)。

 

付記4 西洋<近代>と「西洋人の自我(意識のあり方)」

 

1、「西洋人の自我」がもたらしたもの

(1)世界精神史のなかで重要な意味をもつ「近代的自我」(「西洋人の自我」)

「近代的自我」は、「世界の精神史のなかで重要な意味をもつ」と指摘されていますが、このことは多くのことを示唆していると思います。

 ① 普遍性をもつものではない「近代的自我」

  まず「世界の精神史のなかで」と述べられていることからすると、西洋の<近代>が確立した自我の観念は、人間の歴史のなかで必ずしも普遍性をもつものではないことが窺われます。西洋人の自我がはっきりと他に依存しない存在として確立し、他から独立した主体性をもつと考えられるまでには、ヨーロッパにおいても長い歴史を必要としたと指摘されています。このことは、前段のことを他面から裏付けているといえるでしょう。

 ② 「近代的自我」と自然科学の発展

また「重要な意味をもつ」と指摘されていることは、西欧<近代>において、主体性を獲得した「自我」が論理実証主義という態度を身につけることにより、自然科学の急激な発展を招来したことをも意味しています。他に依存しない存在として確立された「近代的自我」が、他を対象化し把握する力を発揮することによって、自然現象を観察し、解明して「自然科学」を発展させることになったということです。このことについては、下記(2)でさらに言及したいと思います。

③ 「近代的自我」と資本制社会

資本制社会において、「自覚的主体的人間」像が必要とされたことについては先に指摘しましたが、「自覚的主体的人間」像と「近代的自我」が同一線上にあるものであるとすれば、「近代的自我」もまた、実は資本制社会の成立基盤と「重要なかかわりをもっている」といえるのではないでしょうか。 

 

 (2)「近代的自我」と自然科学の発展

西欧<近代>において、主体性を獲得した「自我」が論理実証主義という態度を身につけることにより、自然科学の急激な発展を招来したことは、前記のとおりです。自我(自分)を観察対象より切り離し、客観的観察によって得た知見は、観察者のあり方とは関係のない「普遍性」をもつために、このような態度を徹底して得た<近代>科学の知は、じつに強力なものとなったとも指摘されています。

    ① 自分と観察対象の切断 

    上記の状況のもとでは、自我(自分)を観察対象より切り離す、観察者のあり方が常態化されます。

   ② 主流となる客観的観察・自然科学的手法 

 また上記の状況のもとでは、観察者と観察対象である自然を切り離し、客観的観察によって知見を得るという自然科学的手法が主流を占めてくることになります。

   ③ 対象化される自然    

このようにして確立された自我が、自然を対象化し、自然科学を武器として自然を支配していくことになります。

 

 (3)進歩 発展という概念と近代

「近代的自我」は、「まず人間ありき」を出発点として、自然科学を武器として自然を支配することで、進歩や発展をめざしてきた、といえるでしょう。ここでは、「進歩」とか「発展」の概念が重視されてくるのは<近代>になってからと指摘されていることに注目しておきたいと思います(<注1>(3)Right to Development も、このような視点とあわせてみていきたいものです)。

 

2、 「西洋人の自我」の様々な側面(課題)

「近代的自我」は壮年男子を中心的イメージとしていることは本文で触れましたが、「近代的自我」の様々な側面を、「課題」も含めてみていきたいと思います。

 

(1)他に依存しない「近代的自我」→つなぐものは何か

  ⅰ 対話

   他に依存しない「近代的自我」と「近代的自我」(個々人相互)をつなぐためには「対話」が重要になってきます。そして「言語化」を始めたら、対話を続け、討論することで解決点や妥協点を見出す努力を期待することになると言われています。欧米人を相手にして対話することは、(その内容の厳しさから)対決することに等しいとも言われています。

  ⅱ 神 

   「近代的自我」はキリスト教によって支えられてきたといわれています。「最後の審判」の際に評価されるような自我を創り上げることが、「近代的自我」の確立を支えてきたということです。しかし、<近代>科学の発展によって、キリスト教の教義が簡単に信じられない、という困難も生じてきています。

 

 (2)対象化ということ

   「近代的自我」が、自然を対象化し、自然科学を武器として自然を支配してきたことはすでに触れました。最近では、こうした自然科学的認識の重要性を認めつつも、それとは異なる視点からの、つまり我々もまた「存在するものの全体」(自然)の一部であることに関連した「自分がなかに入った物の見方」の重要性も指摘されてきています。客観的な観察者と観察される現象とを明確に区別して考えることが不可能な場合があること、観察者も現象のなかに組み込んで全体的関係性を問題にしなくてはならなくなってきていることは、最近の理論物理学(量子物理学)においても指摘されてきています。

以上のことが、本文 (2)西洋人の自我(意識のあり方)」と障害者 の項を理解する参考になれば幸いです。

 

(注)

(注1) 社会モデル

  ① 「障害の社会モデル」の捉え方は論者により異なりますが、それは一般に、障害者の不利や排除等の「障害問題」の原因と責任を社会の側に帰属させるものです。このモデルは、「障害問題」の原因と責任を障害者個人に還元させる「障害の医学モデル」と対立し、障害を社会的構築物として観念するものである、と説明されています(前掲「増補改訂 障害者の権利条約と日本 概要と展望」p22 原語は略)。

  ② 河野さんは、「社会的生活被(阻)害」あるいは「障害の社会モデル」という捉え方を基本としたうえで、障害法における法的人間像を具体的に把握し、市民法および既存の社会法との対抗:補完関係を再考する、と述べています(「障害法 創刊号」p11)。

 

(注2) 人権モデル

① 人権モデルが、人間に固有の尊厳に焦点をあてていることは間違いなさそうです。本文で触れた「障害法 創刊号」の中で、池原さんは、偏頗な社会構造(従属性)あるいは差別をなくすことによって障害の問題はすべて解消することになるのか、これは理念型の社会モデルに対する批判としてもよく指摘される点である、と述べて人間に固有の尊厳に焦点をあてた議論を展開しているようにみえます(詳細はp100参照)。この指摘は、社会モデルと人権モデルの差異と関連をよく示しているようにみえます。

② 池原さんはまた、近時、障害者権利条約が前提とする障害の理解について、社会モデルを超えて人権モデルを提示する見解が有力であり、人間の尊厳を最上位規範として、平等性、社会的包容化、教育、就労、健康やハビリテーション・リハビリテーション、文化的で相当な社会的生活の権利等々の人権の帰属主体としての障害者像が求められている、としています(「障害法 創刊号」p100参照)。

③ しかし一般的には、人権モデルと社会モデルとの関係については論者によって、理解に相違がありそうです(人権モデルについては、前掲「増補改訂 障害者の権利条約と日本 概要と展望」p17、p22に説明がありますが、社会モデルとの関係についてはわかりにくいように思います)。

④ 付記1 河野論文における「社会モデル、人権モデル」の理解もあわせ参照下さい。

 

(注3) 概略を述べると、近世以来しだいに自己の勢力を増大しつつあった市民階級(一般にブルジュワジーといわれますが、その実像は国によって異なります)は、市民革命によって旧身分社会を崩壊させ、代わりにすべての人間が平等であるという市民社会を出現させました。同時にそれは資本主義経済の発生を意味します。このような近代市民社会(「資本制社会」)の法的表現が市民法といわれています。そのモデルとなったのは、フランス革命の成果を取り入れたナポレオン法典(1804年)であるとされています。

 イギリスが典型とされますが19世紀中葉、先進資本主義国ではひとつの理念型として、自由放任政策のもと市民の生活は原則として各自の意思にゆだねられ、市民相互の関係に行政が介入することは極めて少ない体制が採用されようとしていました。つまりそこでは、「私的自治の原則」が最大限に保障されているということになります。このような国家体制は、夜警国家 近代国家とも称されていますが、そこでは市民相互の関係は、「私法」関係として捉えられ、それらの関係形成は市民の自由意思に委ねられるべきものとされてきます(通常それは、法的人格権の確立、所有権の絶対性、契約の自由の三つの原則を柱として組み立てられていたといわれています)。こうしたことが、本文で触れた「強い安定した自立した個人」が、「市民法的人間像」として求められてくる背景と考えられます。

 

(注4)

① 市民法原理は、実在の人間に付随する社会的経済的差異を一切捨象した自由・平等な抽象的な法的人格者概念から出発します。(注3)もあわせ参照ください。

② 市民法原理のもつ①のような抽象性は、資本主義経済の進展とともに、一部で現実社会との遊離を是正することを目的とした立法とそのための法理が要請され、社会法の領域が形成されてきます。社会法では、近代市民法が想定した人間像ではなく、より生活に密着した「社会的・経済的諸要素によって規定された具体的な実在の人間像」が想定されています。その人間像の典型は、孤立した個体ではなく社会のなかの人間、すなわち集合概念として把握された「労働者」ということになります。

③ 河野さんは、「合理的理性を有する抽象的人間像(近代市民法における人間像)から外され、また身体・知的・精神障害者という一応具体的に捉えられた人間像(既存の社会法における人間像)でも、現実にはほとんど保護の客体として処遇されてきた障害者が、これからは地域社会において自立して生活する平等の市民として、法的に位置づけ直されるため、障害のある人々の社会的属性に沿って、既存の法理の修正・発展を図る「新しい社会法」の視点から、障害法概念を考える」(「障害法 創刊号」p15、なおp19もあわせ参照 下線橋本)と述べています。なお「新しい社会法」については、<注1>の(5)河野論文に関連して もあわせ参照下さい。

 

(注5) 中村桂子「科学者が人間であること」p83 岩波新書 2018年。中村桂子はまた、「総合的に自然を見るには、学問と学問の融合ではなく、人による融合が必要です。それにはまず専門家が~自然と日常を自分の中に意識することです」(p82~83)とも述べています。ここで言われる「自然」の中に、「治癒とか固定が問題になっている対象(他者)」を入れてみると多くのことが見えてくるように思われますが、どうでしょうか。

 

(注6) 「青木研究会」では、以下のような問題点も指摘されました。本文で触れた自由・平等と生存に関係する問題のように思われます。

     障害者権利条約19条、28条は、障害を持つ人の「生活する権利」について「自立し

た生活」「地域での生活」「自己及び家族の相当な生活水準」の平等な機会の権利を定めている。この規定する人権はどのような規範内容だろうか。

     権利条約の国内法の整備、準備のために設置された「障がい者制度改革推進協議会」

2010年)の中で「障害のあるひとが地域社会で独立した個人として基礎的生活を営むこと」、「障害者ができる限り自由な選択での社会参加を目指すことを長期にわたって支えられること」を障害関連法の改革に据えるべきだと主張されています。これらは、権利条約の規定から根拠づけているようだが、日本のこれまでの人権論からは導出できないのか、あるいは、障害者権利運動からは権利規範化は求められなかったのか。

 

(注7) 人権体系という実定法制度が、資本制社会において基本的に今日まで支配してきたという事実にたてば、自然法思想のなかに、資本制社会の要求する原理が内包されていると判断せざるを得ないことになります。ここでは、ロックの自然法思想の中で、現在の人権体系を理解するのに不可欠な部分の中からさらにその一部に言及してみたいと思います。

 

(注8) 齋藤 純一「公共性」p70(岩波書店 2010)。Amartya Senについては、前掲 橋本「社会福祉(計画)における住民参加の再構築―アメリカの「統治」概念を手がかりにー」p103 注51も参照下さい。ヌスバウム(Martha Craven Nussbaum)は、センと同じく潜在能力論に立脚しながら、潜在能力の規範的基礎について論じています。

これまでみてきた範囲にすぎませんが、センやヌスバウムにおいても「生存にとっての他者」の視点はないように窺えます。近代西欧的な発想との関係が問われなければならないのかもしれません。今後の課題です。

 

(注9) 障害年金に焦点をあてたものではありませんが、最重度障害者の「思い」の実現に関係する法律行為を、障害者自らが行使できるように支援することはどこまで可能なのかの関心から執筆した論文として、橋本宏子「福祉サービス利用契約における『支援された意思決定』を考える」神奈川大学法学部50周年記念論文集所収 2016年をあげておきます。

 河野さんは「研究会」で、「障害者自身が自らニーズを判定する」と述べています。私もそのとおりだと思いますが、「ジャーナル論文」「障害法 創刊号」等の河野論文全体から想像する限りですが、河野さんは「障害の故に自分の思いを纏めたり、表現することが難しい人も少なくない」という事実にあまりウエイトを置いていないように窺われます。その結果「障害のある人」のイメージを、池原さんのいう「車いすを利用している西欧の白人成人男性」(「障害法 創刊号」p100)にはからずも近づけることになっているのではないか、と感じています。河野さんときちんと話し合ってみたいことのひとつです。

 

(注10) 「生存権」は「国家の配慮」を要請するという意味では、「政策」的に捉えられるかもしれないが、「具体的に自由になる人間の尊厳の保障」という正義の要請の実現を志向するものであるという意味では、現代の「法の理念」そのものであるという趣旨の指摘は重要と考えます。詳細は、下山 瑛二「沼田理論と『基本的人権論』」『沼田稲二郎先生還暦記念論文集 現代法と労働法学の課題』p65~66 総合労働研究所 1991年 参照。

 

(注11) これに対し憲法学界の憲法13条の「人間の尊厳」理念に対する理解は、「自由人権主体としての個人」の尊厳性を人権の普遍的要素とみるに留まり、本文で述べたような「憲法13条を近代自然法思想の単なる再確認に留まるものではなく、その発展的形態とみる」という発想はないようにみえます。

 日本における憲法学研究の主流は、憲法審査の基準論を軸に置いているようですが、憲法13条から直截規範内容を導き出すわけではなく、原理としてはあるけれども規範内容の憲法の審査基準、解釈基準を導き出す場合は、憲法25条を根拠としていることが窺われます。

 憲法学においては(障害者関連の憲法訴訟においては)、障害者権利条約を日本が憲法基準として批准していることを視野に入れ、その原則を憲法25条1項の生存権の規範内容として、憲法の違憲審査基準として導入するという方向での考察もなされているようです。その場合の憲法25条の背景としては、成長発達権や自己実現権が想定されている場合もあるように窺われます。

また最近の憲法の学説のなかには、憲法25条1項の規範内容を生活保護法における給付に限定しない傾向がみられます。その場合も他法他施策による所得保障・医療保障・介護保障等を通じての、様々な基礎的生活保障への必要を充足させることという視点にたっている、と考えられます。もっとも、他法他施策による所得保障・医療保障・介護保障等における各保障の必要・程度は、各給付及び各当事者の状況において一様ではなく、ここでもやはりその者の必要に応じた基礎的生活保障への多様な配慮が要請される、と述べられています(この点に言及したものとして、尾形 健 「福祉国家と憲法構造」p143参照 有斐閣 2011年)。

 社会保障法に関係する憲法訴訟の多くは生活保護法関連に集約され、障害年金をはじめ社会保障法の他領域における訴訟は少ないのが現状です。いずれにせよ社会保障法関連の訴訟においては、原告(たとえば障害者)の生存権の侵害が、憲法に違反するという主張が軸となっていることが多いように思います。しかしその論理の組立てには、残された課題も少なくないように見受けられます。厳しくいえば、憲法学の既存の解釈に引きづられることなく、パラダイムシフト=判断枠組みの転換の提起が求められてきているということでしょうか。障害者の人権をもっと創造的に構成し、憲法学説、判例を打ち破ることが求められている、という指摘もなされています。そのためには、憲法審査の基準論を軸に置く憲法学の研究方法とは別に、視点を法改革に置き、裁判や運動の事例の検討から、権利意識、人権意識の拡充、発展を通して、運動の造る法規範―裁判規範、立法規範などーのダイナミズムに注目していくことも重要なことに思われます。障害者権利条約には障害者の運動がどのような法原則を創ってきたのか、いいかえれば(運動の創る法規範―裁判規範、立法規範)の基礎づけ、理由付けのヒントがあると考えることもできそうです(以上は、「青木研究会」での議論を踏まえながら、私の責任で纏めたものです)。

 

(注12) 本文で述べたことは、障害者権利条約の規定するルールとしてinclusive principleをどう法規範化するかにも関連するのかもしれません。青木宏治さんは「青木研究会」において、inclusive principleについて次のようにのべています。

 

権利条約の規定するルールとしてinclusive principleは、障害を持つ人のlegal capacityであったり、accessibilityであったり、living independently and being included in the communityなどがあります。これらをどこまで、人権としての平等規範化=ルール化にするのか、法律規範として示すことが重要だと思います。なお、inclusionを法規範として法律用語として定義、訳語をどのようにするか、は依然、課題であるように思います。包容とするのであれば、いまの国語辞典、英和辞典の定義に加えて新たな人権平等論で使用する定義を提起する方が良いと思いますが、どうでしょうか。同じように、reasonable accommodationも同様です。

 

(注13) 財政の民主化ないし財政民主主義とは、「国の財政は、主権者である国民に由来するものであり、国民の意思に基づいて処理され、国民全体の利益、幸福のために運営されなければならない」ことをさし、「財政は財源を調達する『財政権力作用』と調達した財源を管理・使用・処分する『財政権利作用』に分けられる」と説明されています。この延長線でみていくと、保険者には行政庁としての面のほか保険事業を適格に行う権利義務の主体として、保険給付が適正に行われるように図るべき職責があるとみることもできそうです(国民健康保険審査会の裁決の取消訴訟と訴えの利益 最高裁昭和49年5月30日 昭和46年(行ツ)第106号大阪府国民健康保険審査会決定取消請求事件における1・2審判決参照)。本文で述べたことは、下山 瑛二「サーヴィス行政における権利と決定」 『人権と行政救済法』 三省堂 1979年 所収で述べられていることを土台にしていますが、この問題は「保険財政の民主化ないし財政民主主義」の問題として検討すべきことのようにも感じています。今後の課題です。

 

(注14) 本文(6)で述べたことを、障害認定基準、「行政の専門的裁量」にひきつけたところで纏め直すと以下のようになります。

 ① 障害認定基準は、行政手続法上の審査基準 処分基準にあたると考えられています。行政手続法は、「審査基準 処分基準は、出来る限り具体的なものとしなければならい」としています(5条 12条参照)。

 ② しかし障害認定基準は、多くを「行政の専門的裁量」に委ねています。例えば第17回障害年金法研究会において取り上げられる予定の1型糖尿病に関連する「代謝疾患に関する障害」の認定基準は、政令と同様に抽象的な定めにとどまり、認定要領では客観的数値が出てくるもののそれでもなお「総合的に判断する」こととなっています。

 ③ それでは「行政の専門的裁量」とは何でしょうか。朝日訴訟において、最高裁判所(傍論における多数意見)は、保護基準が争訟の対象になるか、またどこまで基準の違法違憲性について審査できるかという問題にあわせて次のように述べています。「厚生大臣が定める保護基準は、法8条2項所定の事項を遵守したものであることを要し、結局には憲法の定める健康で文化的な最低限度の生活を維持するにたりるものでなければならない」「しかし、健康で文化的な最低限度の生活なるものは、抽象的相対的概念であり、その具体的内容は、文化の発達、国民経済の進展に伴って向上するのはもとより、多数の不確定要素を総合考量してはじめて決定できるものである。したがって、何が健康で文化的な最低限度の生活であるかの認定判断は、いちおう、厚生大臣の合目的裁量に委されており、その判断は、当不当の問題として政府の政治責任が問われることはあっても、直ちに違法の問題を生ずることはない。ただ、現実の生活条件を無視して著しく低い基準を設定する等憲法および生活保護法の趣旨・目的に反し、法律によって与えられた裁量権の限界をこえた場合または裁量権を濫用した場合は、違法な行為として司法審査の対象となることをまぬかれない」としています(1040頁)。生活保護法の保護基準(告示)は、法規性をもって国民を拘束するという点では、通知である障害認定基準と異なりますが、「健康で文化的な最低限度の生活が、多数の不確定要素を総合考量してはじめて決定できる」ものであることに結び付けて、「行政の専門的裁量」を捉えていることは、障害認定における「行政の専門的裁量」を考える上でも参考になりそうです。

 ③ 上のことを前提としたうえで、問題をもう少し障害認定における「行政の専門的裁量」に引き付けてみていきたいと思います。

  ⅰ 障害の認定が、主として医学モデルに依拠している現状は、「行政の専門的裁量」といわれることを、「専門性」の視点から問い直すひとつのきっかけを提示しているようにみえます。

  ⅱ 「障害年金の要保障事由」を「稼得能力の喪失・減退」と関連させて捉えるのか、本稿のように「日常生活能力」を「人間として生きる」ことと結びつけて捉えた場合に関係してくる「専門性」は異なってくるようにみえます。

 ④ つまり「行政の専門的裁量」といわれますが、その多くは「行政」の役割とは切り離したところで、考え直し位置づけなおすことが可能なように思いますが、どうでしょうか。つまり、障害認定において求められる「専門性」は何か、その「専門性」はどのような形で、人びと(受給権者)の「人間として生きる」ことの保障に寄与することになるのか、の観点から検討しなおしてみるということです(下記⑦参照)。

 ⑤ 「行政の専門的裁量」との関わりで検討しなければならないのは、むしろ財源の問題ではないでしょうか。障害を認定すべき十分な状態にあるにもかかわらず、予算の逼迫を理由に認定しないことはもとより容認できることではありません。しかしこのこととは、別の次元の問題として、ⅰ 保険者には保険給付が適正に行われるように計るべき職責があること ⅱ 保険者には行政庁としての面のほか保険事業を経営する権利義務の主体としての側面がある(国民健康保険審査会の裁決の取消訴訟と訴えの利益 最高裁昭和49年5月30日 昭和46年(行ツ)第106号大阪府国民健康保険審査会決定取消請求事件における1・2審判決)ことは、確認しておくべきことのように思われます(下記⑦参照)。

 ⑥ それでは障害の認定においては、いわゆる「行政の専門的裁量」をどのように整理することが求められているのでしょうか。行政法の立場からは、違法な裁量権行使かどうかは、「多事考慮あるいは要考慮要素不考慮」「個別事情考慮義務違反」等の視点から検討することになり、また他の同様の障害を抱える人と別異の扱いを受けているという場合には、平等原則違反が問題になりそうです(当初、2020年2月に予定されていた第17回障害年金研究会の準備段階で受けた嘉藤 亮神奈川大学教授からの教示を橋本の責任で纏めたもの。この点についての詳細は、今後開催される同研究会での嘉藤報告に期待したい)。

 ⑦ 本稿では上に関わる問題を、憲法25条に基づく国民の生存の権利(障害年金を受給する権利)と行政主体の決定の関係を切り口として考えています。具体的には、

  ⅰ 行政主体の決定(障害の認定)は、国民の生存の権利保障のための一手段にすぎない。

  ⅱ 障害年金を受給する権利は、障害年金を必要とするという「需要(need)」に裏付けられている。

  ⅲ 国民の生存の権利(障害年金を受給する権利)と行政主体の決定(障害の認定)の間に何らかの「調和」を見出すこと、受給権者の生存のための要求と行政主体の判定基礎資料をつきあわせるという「新しい法観念」(以下ⅷ参照)に依拠した問題処理を考える。

ⅳ 行政主体の判定基礎資料を国民の生存の権利の対概念に置く根拠としては、上記③④も関係してこようが、遡れば⑤ということになろうか。

  ⅴ 上記ⅲで「調和」という言葉を使用しているが、あくまで受給権者の請求(国民の生存の権利)の上にたって、個々の案件を処理するのが原則となる(上記ⅰ参照)。したがってそれは、国民のニーズ(国民の生存の権利)の一種の確認手続を意味する。

  ⅵ うえで述べたように、あくまで国民のニーズが基盤になるのであるから、認定基準は「法規性」をもって国民を拘束しない。認定基準は、「準則」でありその個別事案処理の内部基準にすぎない。

  ⅶ 障害の認定手続(国民のニーズの一種の確認手続)には、本人及び本人の主張の擁護者が参加する(上記③④参照)。

  ⅷ 個々の事案における決定(障害認定)は、しばしば「裁量」に依存しているが、全機構(障害の認定手続)は資格(entitlement)、すなわち、権利(right)に基礎づけられている(ここでのentitlementrightの用法は、イギリス法のものであり、本稿<注1>にいうentitlementrightの説明とは異なる)。

 上記7は、下山 瑛二「サーヴィス行政における権利と決定」 『人権と行政救済法』 三省堂 1979年 所収 を参考としながら、独自の考察を加えたものである。

 

 なお、河野さんもイギリスのサービス利用計画についてですが、「本人中心にまず生活目標(outcomes)を立てて、地方当局はその目標の達成に必要なサービスの利用計画を本人中心に策定しなければならないこと」に触れ(「障害法 創刊号」p25)、わが国も総合支援法においては、「地方自治体の実施機関は、ニーズの判定過程および支援計画の策定過程において、当事者と協働して判定・策定する義務を有することを明文化する必要がある」(同p27)と述べています。

 

(注15) 「年金制度の主な目的は所得の喪失や減少に対して、所得保障を行うこと」(注①)という点については、歴史的にはそのとおりではないかと思いますが、現状は変化しているのではないか、と感じています。金銭給付という意味では所得保障ですが、後述する「安部分類 ウの請求の増大と個別性の焦点化」は、所得の喪失や減少に対する所得保障から、現状の健康状態や身体的特徴を包含したところで「人間として生きようとすること」を「障害年金の要保障事由」と結びつける方向性を現実のものとしつつあるのではないか、と感じています。

 

障害年金法研究会の会員である社会保険労務士の安部敬太さんは、国年令別表、厚年令別表に定められた各障害は、その障害がどの程度、明確かということで3つに分けることができる(2級について整理)としています(表1参照 以下、「安部分類」という。表1は、第11回障害年金法研究会「大量支給停止問題」を考える「一視点」―社会保障法学の立場からにおいて、安部敬太さんの「論文」<詳細 略>からご本人の了承を得て引用したもの)。 

 ① 「安部分類」に分類される障害の認定は、(それだけで等級認定ができるや認定基準で明確になることも多いと異なり)、障害の有無あるいは程度の認定にかかる行政(認定医)の裁量を増加させていることが窺えます。

 ② 安部分類 ウの請求が増大するにつれて、特に個々の障害者の「全体像」に焦点をあてる必要性(個別の状況ごとの判断が不可避となるという「個別性」)が顕著になってきているようにみえます。

 

表1において、に分類される(例えば精神障害、知的障害、内部障害といった)障害に係る認定は、(それだけで等級認定ができる分類や認定基準で明確になることも多い分類と異なり)、障害の有無あるいは程度の認定にかかる行政(認定医)の裁量を増加させていることは上で述べたとおりです。そのことは当該年金の請求者側に、もっと個々人の異なる「障害の状態」に注目してほしいという要求を増大させることに繋がってきているようにもみえます。こうした「個別性」への関心は国際人権の最近の動向とも一致しているように思われます(<注2>参照)。

 しかしながら、わが国の政策の基本的な方向性は「特定の人の特定の状態は考慮しない」ことにあるようにみえます(注②)。「特定の人の特定の状態は考慮しない」とする行政(年金機構)の姿勢は、行政が社会保険(障害年金)は画一的なものであり、根っこの部分では(「表の分類 」に典型的にみられるような)定量的・定性的判断になじむものであり、そのような判断がどのような障害においても基本的に可能だと考えてきた(考えている)ことに関連しているようにも思われますが、どうでしょうか?言い方をかえれば、社会保険(障害年金)は画一的なものであるという考え方は、伝統的な社会保険制度においてはひとつの見識であったのではないでしょうか。そうした社会保険においても、「特定の人の特定の状態を考慮する必要性」が出てきており、それに伴い障害の有無あるいは程度の認定にかかる行政(認定医)の裁量の問題を、「国民のニーズの一種の確認手続」の視点から捉え直すことが求められてきているということではないでしょうか。

 

(注①)籾井常喜「社会保障法」総合労働研究所 1972年は、「年金制度の主な目的は所得の喪失や減少に対して、所得保障を行うものであること」を明確に理論づけた学説といえると思います。籾井理論をごくごく簡単に要約しておきたいと思います。籾井理論は、生存権保障の根拠を、憲法25条に求めています。そして社会保障制度は、社会保険、社会手当、公的扶助、社会福祉から構成されるとした上で、法的にみた社会保障は、「貧困もしくはその予防に対する所得保障<生活費の一部を保障する>)を目的とするもので、生存権保障の一領域を構成する、としています。そして籾井理論では、社会保障の一環である社会保険は、貧困化の契機となる障害や老齢に対し、一定の所得保障を行うことを目的とするものとされています。籾井理論においては、障害や老齢という保険事故に対しては、定量的・定性的判断により、同じく一定の所得保障を行うものであり、老齢や障害は保険事由として同列の位置にあり、保険事由の背後に存在する高齢者、障害者自体(個々人によって異なる「障害の状態」)に着目しているわけではないように私には思われます。

(注②)例えば昭和51年3月に設置された障害年金廃疾認定基準検討準備委員会の会議では、「特定の人の特定な状態は考慮されないことで意思統一できた」としています。今回の障害認定基準のガイドラインの議論においても、障害の認定はあくまで日常生活の支障におくのであり、その場合に各障害の特性は考慮しないということであったようです(関係者からの資料提供)。

 

(注16) 本稿本文では、障害程度要件の認定に関連して「当該機能障害と社会の関係性から生じる日常生活または社会生活上の支障の存在」をどう認定するか、難しいのはこの認定に係る問題だと述べました。

河野さんは「障害法 創刊号」(p27)において、「常時介護が必要な障害者に対する個別的・継続的・包括的な支援(パーソナルアシスタンス)の受給資格のニーズ判定基準」は、「障害当事者が地域で自立した社会生活を営むのに必要な支援のすべてのニーズを判定する基準、すなわち日常生活の身の回りのニーズに限らず、就学上のニーズ、就労上のニーズを含め、地域生活を営むのに必要なすべてのニーズを判定する必要がある」と述べています。

このことは基本的には「障害年金の受給資格のニーズ判定基準」についてもいえることだと思います。河野さんが言われる「地域生活を営むのに必要なすべてのニーズ」のうち、本来は障害年金以外の他制度において充足されるべきものが、現実に制度化されれば、障害年金は「もっと障害者の生活保障に寄与する制度」としての「本来の姿を明確にすることになる」と考えます。

 

<注>

<注1>

1、公民権法について

(1)ADA法も公民権法 

アメリカ合衆国憲法における人権保障とその実現の在り方をみていく場合、無視できないのが公民権法の存在です。ADA法も、公民権法のカテゴリーに含まれる重要な法律のひとつです。ADA法制定後、アメリカのロースクールのテキストブックのなかには、「Disability  Law」ではなく、「Disability Civil Rights Law」という表題のものも出てきているということです。

 (2)公民権法と合衆国憲法修正14条の平等保護条項の実施

公民権法は、合衆国憲法修正14条の平等保護条項の実施についての連邦政府の責任を確認するという視点にたって1960年代以降は、(それまでの)人種隔離撤廃のみではなく、障害者、英語を母語としない人、ジェンダー、貧困者などの「マイノリティ」の平等をめざすための法律が、連邦法である公民権法として制定されてきました。それと同時期に、国連においても国際人権宣言の具体化として国際人権規約や多数の人権項目を具体化する個別条約が準備され、採択・批准がされました。アメリカの国際条約の実施の仕方は連邦政府と各州によっても異なりますが、前述のような1960年代以降の公民権法をめぐる動きは、国際人権の拡充深化とシンクロするものがあります。

 (3)公民権法と連邦政府の統治責任の実行

公民権法の制定は、連邦政府の統治責任の実行を意味しています。

本文は、公民権法を以下の2つの関心からみています。

1つは、連邦制と関係した連邦政府の人権保障上の役割です。この点に関し少し補足しておきたいと思います。

① 合衆国憲法がとる連邦制の下で平等を保障する義務は、州にあります(連邦政府の管轄地であるワシントンD.C.を除く)。そこで、連邦政府は、修正14条の平等保護条項(equal protection clause)を実現するために公民権(Civil Rights)の保護のために連邦議会の権限を使って数多くの公民権法を制定してきました。

② 公民権法は、当初は人種差別撤廃の連邦法を意味しましたが、その後、政治的権利、経済的差別、社会的権利などの救済、保護義務を求める条項に広がり、広範な人権訴訟(憲法訴訟)が提起されています。とりわけ、公民権法の1983条は注目されています。

③ さらに連邦政府は、スペンディング条項を使って連邦補助金を州政府に交付し、社会権保障策を実施するという手法をとることができます。メディケア・メディケイドなどがその例とされています。

(4)公民権法とentitlement

① entitlement(法的資格)とrightの違い

公民権法との関わりで、よく出てくるのがentitlementという言葉です。entitlementという言葉がどのような場面で使われているのか、事例をあげると、例えば、「経済機会法に基づく給付は、すでに法律によって規定されている『明示された資格についての原則』(principles of objective entitlement)に従って支給されるべきである」といった使われ方がなされています。 entitlementのひとつの意味として、「社会福祉や公民権法などに基づいてなされる給付や救済の請求権(法的資格)を法定化し、権利の特定をして政府の給付義務を求めている」という意味があるとされます。上にあげた事例でのentitlementの用法は、これに該当します。

 この場合のentitlementrightとの違いとしては、ⅰ 実定法ないし制定法によって権利の内容、範囲が特定されていること、ⅱ entitlementの実現には政府、行政からの給付措置が必要とされること、ⅲ ⅱとかかわる部分がありますが、司法救済には給付措置が伴うので、rightのように自己完結しないものとなること などがあげられます。

 ② entitlement の実現とimplementation

上で述べたように、entitlementの実現には、政府、行政からの給付措置が必要とされ、司法的な救済においても給付措置が求められることになります。つまり、entitlement の実現にはimplementation(実行/給付措置)が不可欠だということが、重要な点です。

たとえばアメリカでは、教育の機会の保障を具体的に意味あるものにするために、公民権法に基づき「学校指定についての教育委員会への異議申し立て」、「教育委員会への教員採用・転任・退職などの異動の議題提案」、「public hearingの要請」、「文書開示請求、警察への差別禁止の介入請求」、「裁判所への訴訟提起」などを行うことができるentitlements(法的資格)が規定されているとされます。

これらのentitlement の実現には、「学校指定の再検討」「public hearingの実施」といった行政の給付措置(implementation)が不可欠となり、そのような措置がなされない場合には、当該措置の実施を求める訴訟を裁判所に提起することができるということでしょう。「entitlement の実現にはimplementationが伴う」という文脈の含意は、上のように理解できそうです(公民権法についての上の記述については、橋本宏子「社会福祉(計画)における住民参加の再構築―アメリカの『統治』概念を手がかりに」 p39~40 p50~55も参照 神奈川法学 51巻1号 2018年)。

 

(5)河野論文に関連して

  河野さんは、「~障害法の基本原理とは、障害に関して自由権的側面と社会権的側面を分離せず、総合的に保障することにあり、このように、あらゆる人権および基本的自由の完全かつ平等な享有を基本原理とする点において、伝統的に生存権を基本原理とすると考えられた社会法理論(伝統的な戦後労働法・社会保障法の理論)とは異なる面を有すると考えられる」(「障害法 創刊号」p16)とされ、そこに障害法の「新しい社会法」としての側面をみているようにも読み取れます。

河野さんが指摘される「おおむね前段に自由権的側面を記述し、後段にそのための支援という社会的側面を併記するという」障害者権利条約の諸権利の定式化は(「障害法 創刊号」p17)、「entitlement の実現にはimplementationが伴う」という公民権法のあり様が、ADA法を継受する障害者権利条約に反映された結果のようにもみえるのですがどうでしょうか。

 

2、実質的自由・平等を確保するプロセス

本文においてADA法を継受する障害者権利条約が、ともすれば「自由・平等」の重視に傾き勝ちのようにみえることを指摘した上で、それがどのような条件のもとにおいては生存権を基底とする人権を保障し、実質的自由・平等を確保するプロセスになるのかを検討することの「重要性」についても言及しました。この後段部分のことはまだ明確にはみえていませんが、関連するであろうことをいくつか指摘しておきたいと思います。

 

 (1)「青木研究会」において、英米法における権利論を論議する中で使われてきたimplementaionという用語は、rightには、remedyが伴わなければならないという意味だということです。「entitlement の実現にはimplementationが伴う」という公民権法のあり様は、生存権を基底とする人権を保障し、実質的自由・平等を確保するプロセスに繋がる可能性をもつようにみえます。もっともADA法を継受する障害者権利条約においては、その規定の仕方からみて、権利保障の実行主体である加盟諸国に対し、実行効果までは求めていないと考えられます。しかし加盟国は、モニター、報告義務、検証を通じ、その実効性を担保することが求められることになります。

(2)生存的平等(equality of well-being

少数民族の人々にとっては、アメリカ国民としての生活、生存を脅かされているという意識が存在し続けてきました。生存的平等(equality of well-being)は、ここではequalityの新しい概念として考えられています。この概念は、制度上は自由・平等を保障されているはずの人々の間の実質的自由・平等を求める要求が、生存権の復権運動を基盤として自覚されつつあることを意味しているように思われます。アメリカ社会ではそれを根底のところではcitizenshipと言っているとようです。

(3)自立した個人とcitizenship

本文の問題関心からすると、「障害をもつ人々」にとっての「citizenship」の要求が、「citizenship」の内実を、さらに深めた形で具体的に提示していくことが、ことの外重要なことに思われます。付言すれば、基本的にアメリカ憲法の人権論は、「independentindividual(自立した個人)」が権利を創っていくという視点にたっています。(citizenshipになれるように、多様な仕方で援助する、という意味で)障害者権利条約は、citizenshipの平等を求めているもの、という見方は注目に値します。

(4)コモン・ローの役割

アメリカにおいて、自由と生存の実質的な繋がりを求めてその要の役割を果たしてきたのが、弱者の権利を尊重してきたコモン・ローであるようにもみえます。他面、財産法的思考方式に基づくコモン・ローの態度と慣行には、社会保障の思想と共通するものはないともいわれています。後者の側面をも念頭に置きつつ、コモン・ローの新しい役割とされる「弱者の権利」をも擁護するというコモン・ローの伝統的な精神の具体的展開を考えていくことが重要なことに思われます。

(5)規範の提案に関連して

「障害と法」の実体的法領域を根拠づけるためには、障害の権利論の固有性、権利効力の範囲、保障方法、救済などを画定する規範の提案が求められるように思われます。

アメリカで論議されているものとしは、障害をもつ子どもを教育からの排除することは修正14条のequal protection clause違反になるか、企業の職場で障害を持つ人への作業障壁を取り除く措置をとらないことはreasonable accommodationの義務違反としてequal protection clauseに反するか、それともCivil Rights ActのひとつであるADA法に違反するか、精神障害者の強制施設隔離は、修正4条、5条、14条の違反か、などがあげられています。

(6)まとめー自由と生存に関連する問題

① 本文は、生存権を基盤にして自由権を考えています。その場合の自由は「自己保存」(生存)のための自由と理解しています。

② 本文で言及するように、ロックの自然法思想の人権構造においては、「生存権」的見地からの生命・自由・財産権の統一的把握であったものが、資本主義的制度的人権体系体系の具体的表現形態においては、生命・自由・財産の諸権利が、「自由権一般」の観念からそれぞれ特殊性を帯びて表現されてきたものとなっていきます(下山 瑛二「人権の歴史と展望」p25、p54~55、p58 法律文化社 1972年)。

③ アメリカには連邦憲法上、生存を権利とする規定をはじめ、現代にマッチする福祉の権利規定が存在しません。そのため平等条項に基づいて人権を保障しようとする試みがなされてきたように見受けられます。とすれば、「生存的平等」の意味することも、アメリカにおける<平等条項に依拠した人権保障>にもう少し落とし込んで検討する必要がありそうです。具体的には、

ⅰ <表現の自由と生存の実質的な繋がり>において、弱者の権利を尊重してきたコモン・ローの果たした役割の有無を検討することもそのひとつでしょう。

ⅱ わが国にひきつけていえば日本国憲法13条を受けた25条の「生存権」の意味することと、アメリカにおける<平等条項に依拠した人権保障>の差異と関連を制度の相異を超えて考えてみることも必要でしょう。因みにアメリカでは、「福祉への権利」は、連邦憲法上の平等条項、デュー・プロセス条項などに基づく運動をバネに形成されていると言われています。

ⅲ アメリカにおいて<平等条項に依拠した人権保障>といわれる場合、「生存的平等」とlibertyはどのように関連しているのでしょうか。Freedomが「権力からの自由(抵抗)」を意味するのに対し、Libertyは「権力への自由(参加)」を意味する ととりあえず整理できそうですが、なお検討を要するようにも思われます。従属性という属性だけで障害のある人を捉えることの是非の問題はこのあたりに関係しそうです。

ⅳ「生存的平等」は、根底のところではcitizenshipであるといわれています。「生存的平等」とlibertycitizenshipは、日本国憲法13条を受けた同法25条の「生存権」の意味することと繋がる「可能性」をもつものなのかどうか、問題はそこに戻ってくるように思われます。

ⅴ 特にcitizenshipについては、日本ではcitizenshipを「生存」との関わりで論じることは少ないようにみえます。それだけに、日本におけるcitizenshipの使われ方や現代におけるcitizenshipの理解については、丁寧に検討してみる必要があると考えます。

 

3、問題の複雑さ

「青木研究会」で、青木宏治高知大学名誉教授は、ミッシェル・アシュレイ・シュタイン(Michael Ashley Stein)の論文「Beyond the Disability Law」(カリフォルニア・ロー・レビュー)を紹介しています。この論文は、人権モデルの視点から、公民権法であるADA法を超える障害者権利条約を構想するべく提起されたものです。この紹介を通じ、私達は、本文に関連するいくつかのことが実は複雑に関係しあっていることに気づきます。ここでは、その要点のみを指摘しておきたいと思います。

 

(1)ミッシェル・アシュレイ・シュタインの主張

論文のなかで彼は端的に、「社会権モデルをより充実した形での人権モデルとして、障害者権利条約は作るべきである。つまり、障害者人権パラダイムは、国際人権法の第1世代(これは比較憲法の表現。第1世代は市民的、政治的、権利)、第2世代(経済的、社会的、文化的権利。これらは国際人権規約ABというふうに、一般にはいわれている。わが国でいえば自由権と社会権に対応する)を超えた第3世代としてあるべきだ」と述べているそうです。

(2)第三世代とは

 彼の提唱する人権モデルは、国際法の中では、Right to Development(発展への権利)として考えるべきであるということだそうです。

(3)Right to Development

 Right to Developmentについては、1997年に国連で宣言がありますが、宣言の中では二つ意味があって、集団としての発展という意味と、一人一人の人間が個人の尊厳を最後まで捨てないという、排除されない、消せないという形で言われているということです。

シュタインは、この国連の宣言である発展への権利と、ヌスバウム(Martha Craven Nussbaum)のケイパビリティのアプローチを統合する形で障害人権のパラダイムというのを提案しています。ヌスバウムのケイパビリティは、アマルティア・セン(Amartia  Sen)の潜在能力アプローチを踏まえたところで、独自の見解を展開しているものと理解していますが、シュタインも論文のなかで、ケイパビリティ・アプローチとはどういうもので、ケイパビリティ・アプローチではどういうところが不十分かを指摘しつつ、その主張を展開しているということです。

 

(4)補足 developmentについて

 ①(empowermentのコアの概念としての)development

国際人権規約を支える理念として、empowermentとコアの概念として出てくるのがdevelopmentであること、empowerment developmentを包括する概念がhuman dignityであると指摘されています。developmentという言葉は1956年にユネスコで使用されたのが最初であること、developmentには、economic developmenthuman developmentの2つがあること、(empowermentのコアの概念としての)developmentは、後者の意味であることが明らかにされています。なお青木宏治さんの助言として、死に向かっていくのもdevelopmentであるという捉え方をすべきだという考え方が、国際人権規約の理解としてあることが指摘されています(前掲 橋本「社会福祉(計画)における住民参加の再構築―アメリカの『統治』概念を手がかりにー」p60参照)

 ② 個の尊重と権利主体のdevelopment

1970年代、human dignityintegrityという概念は、empowermentdevelopmentから導き出されるという意識が高まりをみせる中で、individualityは、human dignityを確保するのに不可欠なものであり、人権の主体自身の関与・承認を欠いたところでの基本的人権はありえないと考えられるようになってきます。そのことから権利主体のdevelopmentが起点として不可欠とされ、そのためには、参加(participation)が整備されなければならなくなります。

21世紀に入り、セン(Amartya Sen)の「capabilitiesの平等化の主張」等を通じて、個の尊重への関心は深まりを増してきています。こうした動向は、国連の指摘するhuman developmentにも直接 間接に影響を与えてきていることが窺えます。上に述べてきた諸点を含め、developmentの意味するところを多様に吟味していく必要性があるようにみえます(前掲「社会福祉(計画)における住民参加の再構築―アメリカの『統治』概念を手がかりにー」p65~66参照)。

 

<注2> 個の尊重

 国際人権の流れの中で、Individuality(一人ひとりの個別性に即する、応じる、広くは個別性の原則といえる)は、human dignity(人間の尊厳)を確保するのに不可欠なものであり、個々人、それぞれに則した権利保障という意味であることが明確となり、個を重視する視点が強調されてきました。教育関係の講演などで使われる「子どもの最善の利益」という言葉は、英語ではbest interest of the childです。つまり子どもを集団、集合で捉えるのではなく、個別、ケースごとに異なる個々の子どもの利益を意味しているという指摘は、ここでいう個の尊重の意味をよく表していると思います。その結果、human dignityを確保するのに不可欠なものとして、個への着目、すなわち「人権の主体である個の関与・承認を欠いたところでの基本的人権はない」という考え方が重視されてきます。その結果、「一人一人の個人に則した権利保障」という考え方が注目を浴び、具体的には「個々の当事者の特性に応じた権利を供与するために、その保障過程に当事者が関与(engagement)する手続」とともに、その保障の内容としても個々人への差別除去のその先にある「主体的に生きる」ためには、何が必要かに関心が向けられていくようになります(橋本宏子「社会福祉(計画)における住民参加の再構築―アメリカの「統治」概念を手がかりにー」神奈川法学 51巻1号 p112も参照)。 

 

 国年令・厚年令別表 2

 

誰でもこれだけで等級認定できるもの

抽象的内容を含み、等級認定にはさらなる基準が必要なもの

完全に抽象的で別途、には挙げられていない障害について基準を設けないと等級認定は不可能なもの

2

  両眼の視力の和が0.05 0.08

  両耳聴力レベルが90デシベル以上

⑥両上肢のおや指及びひとさし指又は中指を欠く

1上肢のすべての指を欠く

⑪両下肢のすべての指を欠く

⑬1下肢を足関節以上で欠く

  平衡機能に著しい障害を有する

  そしゃくの機能を欠く

  音声又は言語機能に著しい障害を有する

  両上肢のおや指及びひとさし指又は中指の機能に著しい障害を有する

  1上肢の機能に著しい障害を有する

⑩1上肢のすべての指の機能に著しい障害を有する

⑫1下肢の機能に著しい障害を有する

  体幹の機能に歩くことができない程度の障害を有する

  前各号に掲げるもののほか、身体の機能の障害又は長期にわたる安静を必要とする症状が前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、又は、日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度

  精神の障害であって、前各号と同程度以上と認められる程度

  身体の機能の障害若しくは病状又は精神の障害が重複する場合であって、その状態が前各号と同程度以上と認められる程度

 

※①、②、③は号数

「安部論文」からの引用



[1] (本稿注1)人間は意識をもっています。意識は、① 何かを経験することであると同時に、②判断し、類別化し体系化するという二面性をもちます。そのような経験をする主体であり、意識内容の体系の中心をなすものをここでは「自我」と呼ぶことにします。なお河合隼雄は、ユング心理学を背景に「西洋人の自我」を「近代自我」と表現していますが、ここではより一般的な表現として「近代的自我」という言葉を用いることにします。また河合隼雄は、「西洋人の自我」を「他と切れた存在」と表現していますが、本稿では同じ事を「他に依存しない」という言い方で表現することにしました。