-Ⅱ 2 座談会-

第5回障害年金法研究会・裁判事例検討部会

 

河野正輝論文

「障害者の年金・手当・福祉サービス法における社会参加阻害の要因と展望─障害法の視点から─」

についての意見交換

日時:2019年10月16日(水)15時~17時半

場所:TKPスター会議室四ツ谷

目次

~はじめに~

部 河野正輝九大名誉教授より報告

1 障害法研究の視点について

(1)社会福祉法から障害法への転換

(2)法における障害者像

(3)法原理の転換

2 障害法の形成へ向かう障害者の権利運動

(1)障害者の介護保障ネットの取り組み

(2)介護保険と障害者総合支援の併給調整問題

(3)就労中の介護

3 障害者所得保障における転換の可能性と展望

(1)インクルーシブな所得保障の概念と体系の射程

4 障害認定要件における法解釈上の課題

(1)日常生活能力の制限と稼得能力の制限という2つの評価基準の関係

(2)ICIDHからICFへの障害概念の発展の評価――医学モデルから社会モデルへ

(3)援助・補装具・医療等を受けた上での稼得能力の判定インクルーシブの視点から

5 障害に起因する費用とは何か、およびその保障のあり方について

部 参加者との意見交換

なぜ「障害者像および法理論の転換」から出発すべきなのか

障害年金の審査認定における社会モデルの位置づけについて

「稼得能力」の判定をめぐって

「稼得能力」だけに問題を収れんさせていいのか

障害年金と障害に起因する費用の保障を分けて考えたい

社会モデルを実践レベルで組み入れることの難しさ

パーソナル・バジェット(個人予算)という考え方の意義

障害年金法研究会 報告レジュメ(20191016

 

 

~はじめに~

安部敬太会員 第5回障害年金法研究会裁判事例検討部会を始めさせていただきます。きょうは遠路はるばる河野正輝九州大学名誉教授に来ていただきました。河野さんは当研究会のウェブ雑誌の創刊号に論文を寄稿してくださいました。その論文をめぐって、研究会の皆さんと意見交換をする趣旨でこうした機会を作らせていただきました。今日の報告のレジュメはあらかじめ皆さんにお送りしていますので、すでにお読みのことと思います。そこでまず、河野さんのほうから、30分程度でご報告いただいて、その後、ディスカッションに入りたいと思います。では、よろしくお願いいたします。

 

河野正輝 こういう機会を与えていただきまして、ありがとうございます。九州大学(名誉教授)の河野と申します。時間が限られておりますので、早速、本論に入らせていただきます。

私は社会保障法、なかんずく社会福祉法を中心に勉強してまいりました。社会保障法や社会福祉法では障害者のニーズに着目して、かつそのニーズは行政、専門職が判定するニーズに基づいて、法律が構成されているというふうにざっくりと言っていいかと思うんですが、それを今、障害法という新しい考え方に立った法制へ変えるべきではないかという議論をしているわけです。以下、レジュメに沿ってお話いたします。

 

 

第Ⅰ部 河野正輝九大名誉教授より報告

 

1 障害法研究の視点について

(1)社会福祉法から障害法への転換

私の問題提起を簡潔に申し上げますと、社会保障法や社会福祉法において、障害者が取り上げられ、給付が行われるということをすべて無くして、全部、障害法へ転換するというわけではないのですけれども、今までの社会福祉法における障害者の取り扱い方にとどまっていては駄目だろう。障害者の取り扱い方のどこが問題であるのか、また、障害法における障害者の取り扱い方へどのように変革していくのか。障害者の取り扱い方という表現では分りにくいかもしれませんので言い換えますと、法律上、障害者をどのように権利主体として確立していくかということ、そこが問われているのだろうということです。

その転換をもう少し明確に述べるとすれば、社会保障法や社会福祉法が障害者をどういう人々として見てきたか。障害法という新しい領域では、法における障害者像をどういうふうに変えようとしているのか。要するに、法における障害者像の転換をどう考えるかということです。その根本にはもちろん法的な原理の転換があるわけですので、それを明確にする作業がまず前提になきゃいけないのだろうと思いまして、少し障害法の勉強を始めたわけです。

私は障害年金それ自体をテーマに研究をしてきたわけではありませんが、この際、障害法の総論的な発想から障害年金を捉え直してみたら、どういう問題や論点が見えてくるのか、を考えてみました(拙稿「障害者の年金・手当・福祉サービスにおける社会参加阻害の要因と展望――障害法の視点から」ウェブジャーナル『障害年金法』創刊号参照)。

ですから今日のお話は、まず、どういうふうに社会福祉法から障害法へと転換させるかという障害法研究の視点を、あらかじめ簡単にお話をさせていただき、その後、障害年金の論点へ移ることにします。

(2)法における障害者像

ごく大雑把なサマリーとして、社会福祉法から障害法への転換を、法における障害者像の転換という観点から述べるとすれば、社会福祉法においては、障害者は要援護者として、そして後には福祉サービス利用者として定められてきたわけです。要援護者とは文字通り、援護の必要な者、自分では自立して生活できない、他者による援護を必要とする者という意味です。要援護者から福祉サービス利用者という規定に変わりますと、利用者としての主体的な選択をもっと保障すべきだという観点に立って障害者、高齢者が見られるようになります。しかし、利用者としての障害者像というのは、消費者保護の対象にとどまっているというふうに私には思える。つまり障害者を保護の客体として捉えているわけで、程度の差こそあれ、保護の客体という捉え方から、なかなか抜けだせないでいるのではないか。

そういう利用者像に対して、障害法という新しい法分野では、レジュメに書いていますように「機能障害と社会的障壁の相互作用により、社会参加をさまたげられ、社会的不利に置かれている障害者」という像として捉える。一言で申しますと、一般の市民より「従属的劣位に置かれた障害者」。援護の必要な人々というより、むしろ、自ら自立して社会参加したくても社会的障壁との相互作用によって社会参加を妨げられ、社会的不利に置かれてきた人々である。この従属的劣位(subordination)という特質を直視し、それを法律上明記して、そうすることによって障害者は「人権および基本的自由の完全かつ平等な享有主体であることをとりわけ保障する必要性のある人々」と認めていくことになる。障害法が想定する新しい障害者の捉え方はこのようなものではないか。また障害者権利条約が定める障害者像もそうなのではないかというふうに思います。 

このような障害者像の捉え方から必要になる法制度の改革は、まず、①教育、雇用、その他、全ての社会生活における、障害を理由とするあらゆる差別を禁止するための差別禁止法の制定、および②地域社会で自立して生活する平等の権利を、障害者にも他の者と平等に保障するための総合的な地域生活支援法の制定、ということになります。後者に関する日本における最初の取り組みが、不十分ではありますが、2012年改正の障害者総合支援法だというふうに考えるわけです。

(3)法原理の転換

これらの二つの大きな分野、つまり差別禁止法という分野と総合的な地域生活支援法という分野から、障害法という新しい法領域は成り立っていると考えますと、次にはこの法領域を貫く法原理は何かということが問題になります。法原理を要約して説明することは誤解を招くかもしれませんが、障害法の法原理の特徴点を挙げるとすれば、差別禁止法の分野では包容的平等という法原理です。

      一般意見第6号におけるインクルーシブ(包容的)平等の原理

まず、障害者権利条約で、差別禁止(平等)という考え方そのものの転換が図られたというところに注目すべきではないかと思っています。つまり、差別禁止(平等)原理の考え方が、「形式的平等(formal equality)」から「実質的平等(substantive equality)」へ、「実質的平等」からさらに「包容的平等(inclusive equality)」へと展開しているのです。

ご承知の通り、差別禁止(平等)原理の捉え方は、「等しき者を等しく、異なる者は異なって取り扱え」というかたちで形式的平等論から実質的平等論へと発展してきました。形式的に平等を保障するだけでは障害者はなかなか現実的に平等に近づけないから、例えば、障害者を従業員の一定割合雇用することを使用者に義務づける雇用率制度は、障害者を優遇する(形式上は不平等な)取り扱いですけれども、しかし、それを通して実質的に何ほどか平等を実現しようと、考え方や取り組みが前進しますね。前進しますけれども、この実質的平等はしかし、社会的障壁そのものを変革するという取り組みではない。社会的障壁はそのまま残しながら、ただ雇用率を2.2パーセントとか設定して障害者の雇用を伸ばそうとするにすぎない。それでは障害者の差別禁止(平等)はやっぱり実現しないので、社会的障壁にあたる制度も環境も意識も除去していくという変革を伴うような平等論にならなければ、いつまでたっても障害者の平等は実現しない。

障害者権利条約が成立する前に、ヨーロッパではこの平等をめぐる法原理の研究がかなり進みまして、転換というものを内包する、転換を要請する新しい差別禁止(平等)論が「転換的平等」(transformative equality)という用語で論じられてきたのです(transformativeは、直訳すれば「転換的」という意味ですが、前掲の拙論では「形成的」と意訳しています)。

テレジア・デゲナーさん(Theresia Degener国連の前障害者権利委員会委員長)は、かつてはトランスフォーマティブ・イコールティ(transformative equality)という用語を使って、論文を書いています。しかし、障害者権利委員会の「平等と差別禁止にかんする一般意見第6号」(2018年)では、トランスフォーマティブ・イコールティという用語に代えて、インクルーシブ・イコールティ(inclusive equality)という用語を使って、内容的には同じことを説いています。それを読んだとき、トランスフォーマティブよりインクルーシブのほうが障害者権利条約の下では受け容れやすかったんだなと感じました。

障害者権利条約では「アクセシビリティ」という概念と「合理的配慮」という概念を、実質的平等論を超える意義を有する新しい概念として定めているのですが、一般意見第6号では、このアクセシビリティと合理的配慮の二つが、インクルーシブ・イコールティを実現するための手段として位置づけられているのです。

なおひと言補足しますと、「アクセシビリティ」の方は、障害者集団を対象にして、あらかじめ例えば外出支援等々の保障を定めておくことによって、障害者が社会生活のあらゆる場面に参加できるようにするという手段。言い換えれば、障害者集団を対象とする社会参加支援の取り組みを、事前の義務として要請する方式がアクセシビリティということになります。もう一方の「合理的配慮」は、例えばある障害者(個人)が、職場の物理的環境あるいは就労時間を変えなければ就労できないという場合に、使用者に対してその変更を求めることができるとする手段。つまり合理的配慮は、個人がそれを求めた瞬間から将来に向かって発生する義務という点でアクセシビリティとは異なっている。言い換えれば、合理的配慮は、障害者個人を対象として差別禁止(平等)を実現しようとする手段であり、配慮を要請される側に将来に向かって変更の義務が発生する。この二つの概念を使って、社会的障壁そのものを変革して除去していくという新しい差別禁止(平等)概念が権利条約に登場した。これは今までの実質的平等論の延長上に、さらにそれを超える考え方として登場したということが、私の強調したい点なんです。

      自立支援の考え方の発展――自由権と社会権の不可分性・相互依存性

それと、もう一つの法原理の転換として私が注目したいのは、「自立支援の考え方の発展」に関連して、その根底にある「自由権と社会権の不可分性・相互依存性」の確立、言い換えれば自由権と社会権の一体的保障という法原理です。

自立支援という理念は介護保険の導入(2000年)、社会福祉法改正(2000年)と支援費制度の実施(2003年)および障害者自立支援法の施行(2006年)というプロセスを経て次第に形成され、広がり、定着をしてきているものです。自立支援という考え方が出てきたからこそ、「要援護者」という規定が社会福祉立法から消えて、「福祉サービス利用者」という規定に変わってきたことも事実です。けれども、その自立支援の考え方にさらに質的な発展が求められてきている。というのは、従来、人権は自由権と社会権に分けられ、社会権は裁量を伴う権利であって自由権より低い法的ヒエラルキーにあるように取り扱われてきました。そういう人権論の下ではどうしても超えられない自由権と社会権の段差がありました。しかし国際人権条約と国際人権法論は、次第にこの段差を克服する方向へ発展してきていて、その発展の歩みの上に、今度の障害者権利条約もできていて、自由権と社会権の不可分性、相互依存性、不可侵性が強調されております。

これまでは、例えば、福祉サービス(社会権)を受ける人々は、それと引き換えに自由権が少し制限されてもやむを得ないとみなされていました。なにしろ長期入所施設で生活を24時間守られているんだから、そこで少しプライバシーが制限されたり、外出したいときに外出できなかったりというのは、それはやむを得ないですよ、ということが当然視されてきた。そうした考え方に対して、いや、そうではなく、自由権と社会権が一体として保障されるようなサービスに変えていかねばならない。その新しいサービス概念として、障害者権利条約は「パーソナルアシスタンスを含む地域支援サービス」というものを定めた。

「パーソナルアシスタンス」というのは日本政府の仮訳では「個人的支援」と訳されたと思います。直訳すれば個人的支援と訳しても間違いではないのですけれど、でも単に「個人的」支援というだけでは、障害者権利条約の意図するところは伝わらないと思います。パーソナルアシスタンスの本来の意味は、「行政・専門職が管理するサービスから自己管理サービス(self-directed support)へ転換」された個人的支援という点にあるからです。自己管理というのは、障害者本人がニーズ・アセスメントして、どういうサービスを利用するかについてもセルフ・プランニングして、そしてサービスを実際に利用するにあたっては、金銭給付(ダイレクト・ペイメント)の形で受けて、そのお金で障害者が自らパーソナル・アシスタント(ヘルパー)を雇用する。つまり、障害者が使用者になり、ヘルパーは障害者によって雇用される被用者となることで、障害者とヘルパーの立場が大きく変わるわけです。

そういうことを通じて、本当の意味での自由権と社会権の一体的な保障を実現していく、それがパーソナルアシスタンスという言葉に込められている本来の意味だと私は理解しています。こうした自己管理サービスへの転換を通じた自由権と社会権の一体的な保障は障害法を考える場合、重要な原理的転換というべき意義を有すると私は思っているのです。

 

2 障害法の形成へ向かう障害者の権利運動

行政・専門職が管理するサービスから自己管理サービス(パーソナルアシスタンス)への実践的な取り組みとして、実際に進んでいると私に思えるものに、次の3つの例をあげることができます。

(1)障害者の介護保障ネットの取り組み

一つは、障害者の24時間介護保障へ向けて、「介護保障ネット」[1] による行政交渉が47都道府県で進められております。この実績は目を見張るものがあります。『賃金と社会保障』誌に報告されている事例を見ますと、現行法の下で実質的にパーソナルアシスタンスに相当する先例が多くの都道府県において実現されつつあると私は評価しています。

例えば、富山県B市の事例(2015年)は、ALSで人工呼吸器を装着した男性(40歳代)が、介護保障ネットの支援を受けて支給量変更の申請に踏み切った事例です。その際、男性は「24時間の公的介護が認められた場合には、自薦ヘルパー(被介護者自身がヘルパーの実質的雇用主となり、人選やシフトなどの決定を行い、被介護者の介護を実施する仕組み)を利用する」という計画を伝えて交渉に臨み、そして交渉の過程で男性は「自薦ヘルパーの確保や育成のために時間を要するので、申請時間のすべてを重度訪問介護とするのではなく、しばらくの間居宅介護と併用して利用したい。つまりは、自薦ヘルパーの運用状況を見つつ、次第にすべてを重度訪問介護に移行していきたい。」という計画をもって協議を進めたところ、市はこれを認めて居宅介護252時間(身体介護190時間、家事援助62時間)と重度訪問介護630時間を支給すると決定し、申請どおり月882時間を認定したという事例です。(中村万喜夫・西山貞義・丸山哲司「家族介護に頼らざるを得なかったALS患者に24時間の公的介護が認められた結果、介護の大部分を自薦ヘルパーでカバーする点に至ったケース」『賃金と社会保障』16954248頁参照)

これは介護保障ネットによる行政交渉を通じて、現行法の下で、パーソナルアシスタンスに近いサービス利用を実現した1つの事例として注目されます。

(2)介護保険と障害者総合支援の併給調整問題

二つは、介護保険と障害者総合支援の併給調整をめぐる、いわゆる65歳問題が全国的に発生しました。65歳に達して介護保険の被保険者になった途端に、今まで受けてきた障害者総合支援法による支給は打ち切られ、介護保険の要介護認定に従って、新しく支給量が決定される。その結果、65歳をきっかけにサービスの量も質も下がる。そのうえ、1割自己負担の負担増となるという問題が全国的に発生したわけです。この問題は訴訟にまで発展して、浅田訴訟(岡山地裁)[2]、天海訴訟(千葉地裁)などが争われています。広島高裁岡山支部まで進んだ浅田訴訟の高裁判決[3]を見ますと、今までの社会保障法における併給調整の常識を打ち破るような判断が示されています。といいますのは、広島高裁は障害者総合支援法(7条)に基づく併給調整を裁量処分と解したうえで、65歳まで総合支援法に基づいて受けてきたサービスによってどのような生活が支援され、他方、65歳後の介護保険によるサービスによって生活の支援はどのように変わるか、生活の支援は前進するのか、後退するのかを考慮したうえで、障害者本人の生活を維持していくためにはどちらがいいのかを障害者が自ら選ぶのが相当である場合があり得ると判示して、いわば選択制を是認する判決を下したからです。

これまで社会保障法で併給調整といえば、例えば、老齢年金と基本手当(雇用保険)、あるいは健康保険法の療養の給付と労災保険法の療養補償など、これらは同じような機能を持っている給付ですから、基本的にはどちらかを優先して、他方は支給しないという調整規定となっています。つまり、二重給付を避けるために定められた優先順位に従って、現場の実施機関は調整決定するだけで、その優先順位を変えるわけにはいかない。現場ではこれを羈束処分というふうに解釈運用してきたわけです。ところが浅田訴訟の広島高裁判決では、介護保険と障害者総合支援との併給調整について羈束処分説を退け裁量処分としたうえで、本人の選択を是認する判断を示したわけですが、それは画期的な判決であったと思っています。これは自己管理サービス(パーソナルアシスタンス)の考え方に沿った判決と言ってよいでしょう。併給調整規定の解釈においてここまで広島高裁判決が踏み込んでくるとは、今まで予想もしませんでした。判決は確定しましたので、この判決の影響は大きいと私は見ています。

(3)就労中の介護

自立支援の考え方の発展を示す3つ目の事例として、就労中の介護をめぐる動向に注目したいと思っていましたら、さいたま市が突破口をまず開けてくれた。さいたま市が市独自の施策として、就労中に介護サービスを利用できれば働ける障害者、とくに在宅で就労している障害者に対して、就労中の介護を始めたのです。

これまで「就労中の介護は重度訪問介護制度による介護の範囲に含まれない」と、国が一貫して除外してきた大きな理由の一つは、就労して賃金を得ることは個人資産の形成に通ずることになるので、そのような個人資産の形成に関わる活動を国の福祉サービスで支援することはできないということでした。だけど、参議院でもう一つの突破口ができましたね。2名の重度障害のある方が参議院議員に選出されたことによって、国会議員としての活動を保障するために、就労中というか公職中というかはともかく、どういうふうに介護すべきか、という問題が生じました。厚生労働省はあくまで重度訪問介護制度でそれを支援するのはノーと言いましたが、参議院が独自の予算によって、2名の議員の介護を行うことを決めたようです。

さすがに厚労省としても後のことは知らんと言うわけにはいかなかったんですね。厚労省は就労中の介護について、全国の状況はどういう実態にあるのか、どういう障害者がどういうニーズを持っているのか、全国調査をすると決めた、と報道されました。全国調査をすれば、客観的に一定の介護ニーズが出てくるでしょう。そのとき、就労中の介護を重度訪問介護制度から除外してきた今までの通達をどう変えるのか。私は変えざるを得ない局面に入ってきたと、その動向を注目しているところです。

 

3 障害者所得保障における転換の可能性と展望                 

(1)インクルーシブな所得保障の概念と体系の射程

以上に述べたような発想で、次は障害年金に目を向けて考えてみたいと思います。私たちは、障害者の所得保障と障害者のリハビリや福祉サービスを、縦割り行政のなかで別のものとして分けて考えてきたのではないか。そして前者の所得保障は、障害年金を支給することで一応果たされているとしてきたのではないか。

しかし、翻って考えてみますと、障害年金を受けても、障害者は依然として教育あるいは就労の面、あるいは地域における市民生活の面でさまざまな差別をずっと受け続けてきている。障害者が従属的な劣位に置かれているという現実はそのまま変わっていないのではないか。確かに生存は障害年金で維持されているかもしれないけれども、差別をどのように克服していくか問題に関して、年金給付は十分応えていないのではないか。まったく応えていないというと語弊があるかもしれません。というのは、金銭給付がないことには、社会参加だってできないわけですから、年金給付は社会参加のための前提ではありますけれども、しかし、その前提は参加促進へ結びつかないまま、むしろ障害年金は障害者の構造的な差別・不利益をそのまま放置する免罪符となっているのではないか。そういう批判がイギリスの障害者運動から起こったのです。

だから、我が国においても、障害年金を支給していますというだけでは駄目で(障害者も特殊支援学校で教育していますというだけでは駄目なように)、年金支給を通じて、社会参加がさらに質的にステップ・アップしていくような所得保障のあり方になっているのかどうか、それが問われるべきだという意味を込めて、私は「インクルーシブな所得保障」という課題を掲げてみました。

インクルーシブな所得保障がどういう体系になるかというのは、骨格だけですけれども、寄稿論文で述べておりますので、参考にしていただきたいと思います(前掲拙論、34頁)。

要約して申しますと、ここでインクルーシブな所得保障とは、「社会的障壁の除去、社会的包摂(ちなみに障害者権利条約の公定訳ではinclusion(包摂)は「包容」と訳されていますが、包容ではインクルージョンの本来の意義を伝えにくいという嫌いがあります。)を指向する所得保障の在り方を指すものです。したがって、このインクルーシブな所得保障は、「稼得能力の喪失」だけではなく、「障害に起因する特別な費用」の発生も要保障事由として所得保障体系の中に位置づけます。かつ所得保障と早期リハビリテーション、就労支援等との密接な連携も、重要な構成要素として、その射程に含む概念になります。

 

4 障害認定要件における法解釈上の課題

(1)日常生活能力の制限と稼得能力の制限という2つの評価基準の関係

インクルーシブな所得保障の中でも特に焦点になりますのは、障害認定要件において、日常生活能力の制限と稼得能力の制限という二つの評価基準の関係をどう考えるかということです。前掲の拙論(9ページ)をご覧いただきたいのですが、私は基本的な考え方を以下のように書いています。

「日常生活能力の制限と稼得能力の制限との間に一方が他方を規定する絶対的な規定関係は存在しない。」言い換えますと、日常生活能力がこの程度の制限であるから、だから稼得能力の制限はこの程度となるというように、一方が他方の判定を導くみたいな、そういう関係にはないと述べています。

これは、20015月のWHO総会で承認されました「国際生活機能分類(ICF)」の障害観にヒントを得て書いているのですが、ICFの障害観によりますと、障害とは、たとえば①下肢の麻痺といった「機能の障害」と、②歩行できないという「活動の制限」、そして③「スポーツを楽しめない、就労できないという参加の制約」という、三つの次元に分けて捉えられる。

このように生活機能と障害を三つの次元に分けて理解する理解の仕方は、佐藤久夫教授によれば「生活機能と障害の構造的理解」というふうに言われています。佐藤教授の理解によりますと、障害の各次元、すなわち機能障害と活動制限と参加制約という三つの次元の間には一般に相対的独立性がある、とされます。相対的独立性というのは、三つの次元がそれぞれ独立していて、初めの機能障害が後の活動制限や参加制約をすべて決めてしまう、あるいは活動制限が参加制約をすべて規定するという関係にはない。言い換えますと、どういう機能障害があるかを調べさえすれば、あとは全てそれに付随して結論が導かれるという関係ではなくて、相対的にそれぞれが独立している、ということです。確かに三つの次元はお互いに関係はしているけれども、絶対的な100パーセントの規定関係にはないということです(佐藤久夫「『障害』と『障害者』をどう理解するか―障害者観とICF(国際生活機能分類)」佐藤久夫・小澤温『障害者福祉の世界(第4版補訂版)』21頁以下参照)。

この相対的独立性への着目は、機能障害があっても補装具等によってできるだけ活動の制限を最小限にすることを促すばかりでなく、例えば車いすの障害者のような活動に制限がある人でも、社会的障壁の除去によって社会参加(たとえば就労)が可能になることに気づかせることになり、自立支援のあり方が大きく変革されることにもなったと言われます。

このような考え方から言いますと、「障害認定基準」(厚生省社会保険庁、当時1986年、最近改正2017年通達)はどうも日常生活能力の制限があるから、労働能力が制限されるという、一方が他方の判定を決めるという認識に基づいて書かれているのではないか。労働といえば肉体労働だった昔の時代であれば、そのような理解で、あるいはよかったのかもしれない。事実、肉体労働であれば、日常生活において歩けない、衣服を着脱できないというような人が、どうしてツルハシやスコップを持てるかということになるわけですから、日常生活能力の制限はそのまま労働能力の制限と考えて、ストンと腑に落ちたのかもしれない。しかし、現代社会にあっては、そういうわけにはいかない。

 結論的に言いますと、前掲の拙論(10頁)ではつぎのように述べております。

「日常生活能力の制限と労働能力の制限という2要素が、国民年金施行令別表を受けて通達された『障害認定基準』では、あたかも並列的な要素として、一方が他方を規定する関係にあるもののごとく捉えられているように読める。少なくとも障害の各次元の間における相対的独立性が明確に捉えられていない。そうだとすると、そのような捉え方は、ICFにおける障害概念の発展を受けて採択された障害者権利条約およびその批准に伴って改正された現行の障害者基本法の法理念とは、もはや相容れない古い障害の理解と言わなければならない。」

ところで、安部(敬太)さんにご指摘いただいて、気が付いたことですが、前掲の拙論のあるところでは労働能力という言葉を使い、あるところでは稼得能力、またあるところでは就労能力と言っていて、統一していないという問題を残しています。ですので、障害年金の要保障事由としては、稼得能力の喪失もしくは減退という用語で統一して用いるべきでした。ちなみに厚生省(当時)の「障害認定基準」(通達)では、労働能力という言葉を使っています。ただ、施行令別表では「労働によって収入を得ることができない」という言葉を使っていて、稼得能力の意味合いを持たして使われていると思えます。

(2)ICIDHからICFへの障害概念の発展の評価――医学モデルから社会モデルへ

日常生活能力の制限と労働能力の制限は前者が後者を決めるというふうに考えないで、私はICFを参考に、両者の相対的独立性を考慮に入れて、かつ障害年金の支給要件においては労働能力の制限(正確には稼得能力の制限)を重視すべきだという考え方を導き出しているわけですが、もう少しICFは、ICIDHとどう違うのかなど、調べる必要があります。

WHOは障害分類をICIDHからICFへ改訂してきたのですが、その改訂の発展は、一言で言うと、私は医学モデルから社会モデルへの発展だというふうに認識しています。

      1980年国際障害分類(ICIDH)

1980年に採択された国際障害分類(ICIDHInternational Classification of Impairments, Disabilities, and Handicaps; A Manual of Classification Relating to the Consequences of Disease)の 表題は「機能障害、能力障害、社会的不利の国際分類―疾病の諸帰結に関する分類マニュアル」となっています。これは副題に明示されているとおり「疾病の諸帰結に関する分類」、すなわち疾病がどういう帰結になるかということを明確に分類することによって、疾病に対する医療保障、リハビリがどういう成果を上げているか、国際的に比較可能にしようという作業の中で作られた分類マニュアルです。

このマニュアルで、障害というものをインペアメンツ(impairments)、ディスアビリティーズ(disabilities)、ハンディキャップス(handicaps)という三つの次元に分けて捉えるという認識が初めて示されました。障害というのは、まず上肢、下肢等の機能の喪失・麻痺を指すインペアメンツ、活動の制限を指すディスアビリティ、それにハンディキャップというもう一つの次元があるとされた。これは社会的な側面ですね。障害の社会的側面というものを初めて認めたのです。

ただ、ちょっと横道にそれますが、ハンディキャップという言葉自体はちょっとまずかったのではないか、という批判が後に出ました。ご存じのとおり、ハンディキャップはもともと手の中の帽子、手に持って路上で通行人に憐れみを乞う帽子、そこから来ている言葉と言われます。それを障害者の社会的不利を表す言葉として用いるのは、果たして適切かという批判がありました。

でも、それよりもっと本質的な問題は、1980年のICIDHが疾病の諸帰結として障害を分類した点です。つまり疾病の諸帰結として、手や足が動かないという機能障害が生じる。その機能障害が歩けない、衣服を着脱できないという能力障害・能力低下を生み、その能力低下が社会的な不利につながっていると。こういうふうに全ては疾病の諸帰結として説明をする。確かにICIDHは社会的不利というところに初めて着目しましたけれども、それはしかし、疾病の諸帰結としてしか見なかった。だから、医学モデルだというふうにICIDHは批判されるわけです。

      2001年国際生活機能分類(ICF

この批判を受けて、WHOはその後、長い年数をかけて、議論を深めていきます。その成果がおよそ20年後の2001年、国際生活機能分類(ICF, International Classification of Functioning, Disability, and Health)。国際生活機能分類では、タイトルがガラリと変わり、「生活機能、障害および健康の国際分類」となった。ここで分類は一転して、障害の三つの次元という視点が消えたように見えるのですけれども、しかし、ちゃんとICIDHを受け継いで、生活機能および障害をICIDHと同じく三つの次元(body functioning & structure, activity, participation)に区分して捉えている。つまり生活機能(Functioning)および障害(Disability)という表現で、生活機能(Functioning)に問題を抱えた状態が障害(Disability)だというふうに捉えている。その問題を抱えた状態は、身体の機能と構造(body functioning & structure)の面でまず現れる。それがいわゆる機能障害ですね。活動(activity)に問題が現れると、それは活動の制限であり、参加(participation)に問題が現れるとこれは参加制約であると。

ICIDH分類では身体の機能と構造(body functioning & structure)の次元をインペアメンツと言い、活動(activity)の次元をディスアビリティーズと言い、参加(participation)の次元をハンディキャップと言っているんですけれども、佐藤久夫教授によると、2001年のICFでは負の意味合いを持つ概念を使わないで、プラスのイメージで障害を捉えようという発想で立てられたタイトル、概念に改められたと言われます。要は、身体の機能の面、活動の面、社会参加の面というように、三つの次元に分けて障害を構造的に捉えるという考え方自体は引き継ぎつつ、その上に三つの次元を健康状態からの影響と、環境因子からの影響と捉え直している。つまり本人の健康状態だけではなくて環境因子、後の言葉で言いますと、社会的障壁によっても影響を受けて、パーティシペーション(参加)ができないということを初めてWHOは表現した。これが人間と環境の相互作用モデルといわれ、ここに今日の言葉で言いますと医学モデルから社会モデルへの転換が認められるわけです。

もっとも2001年段階のICFもまだ宿題を残しているようです。というのは、身体の機能と構造に関する項目をリストアップして、活動の面および参加の面に関する項目もそれぞれきちんとリストアップしようとしているんですが、活動の面の項目と、参加の面の項目を分けることが必ずしもできなかった。活動の面と参加の面の項目が重なるというか、相互に重なっていく。たとえば食事をする、着物を着る、買い物をするというのは活動の面でもあるし、参加の面でもある。どこからが参加の面と言ったらいいのか、項目としてきちんと分類する点は各国がなかなか合意できないところだった。ですので、次回回しということになったと言われています。

今のところは、活動の項目と参加の項目をまとめて一つにして、リストアップされている形になっていますね。しかし、項目の分類がダンゴ状になっている点が今後の改訂の課題として残ったとしても、活動制限と参加制約の関係が一方が他方を規定する、一方が他方の結論を導くというのではないということは、ICFが明確にした重要な点ですので、この意義は看過すべきではないと考えています。

(3)援助・補装具・医療等を受けた上での稼得能力の判定―インクルーシブの視点から

前に述べたように、「稼得能力」という表現については安部(敬太)さんから指摘を受けたことですけど、稼得能力の喪失・減退を評価基準として障害年金を支給するか、支給しないかの判定をするときに、その稼得能力の判定は援助、補装具、医療等を受けた上での稼得能力とするのか、そうではないのかということが問題で、援助等を受けた上での稼得能力とすべきだというのが安部さんのご意見でした。私もそのとおりだと思います。確か、ADAの下でもそういう解釈であったと思います。社会参加の実現を中心的な目標におくと、参加促進のために必要な支援を障害年金と同時に、むしろ障害年金に先立って行うべきであって、インクルーシブの視点に立った支援というのは、障害年金と同時に、あるいは障害年金に先立って支給すべきものである。そのような支援によって社会参加(就労)ができて、それで稼得可能となれば、障害年金はその限りにおいて必要ではないというケースが出てくるかもしれない。出てくることが、むしろ望ましいことではないか。

もう一つ、別稿で書きましたように、日常生活能力の制限と労働能力の制限とを分けて、かつ後者(正確には稼得能力の喪失・減退)を重視して障害年金の要否を判断するという考え方を、実際の事例に当てはめてみたときに、結論として果たしてどれほどの違いが出てくるのか。判定は結局、現状と同じような結果になるのかどうかを、安部さん編集の『障害年金 審査請求・再審査請求事例集』を手掛かりに検討したいと考えたんですが、そこまで作業が進みませんでした。本日、皆さん方から、実際の事例をもとに私見の考え方は役に立たないとか、使えるとか、お聞かせいただければありがたいと思います。

 

5 障害に起因する費用とは何か、およびその保障のあり方について

もう時間が来てしまいました。あとは、問題意識を述べるにとどまりますが、お許しください。

障害年金は働けないから稼得収入に代わる代替所得として提供するものですね。この稼得能力の喪失や減退を埋め合わせる必要とは別に、障害のために特に生ずる出費増に対応する必要があります。この部分もこみにして障害年金で保障する手厚い年金額ならばいいのですが。障害年金の制度設計は稼得能力をどのくらい失ったかということを前提にして、収入喪失の部分を年金で支給しようというものです。ですので障害のために生ずる出費増は障害年金でカバーされない。カバーされないから別途、特別障害者手当(児童の場合には障害児福祉手当)という給付を設けて、これで補うとしています。

ところで、重度障害者が入浴、排せつまたは食事の介護(重度訪問介護)を必要とする場合、現行法では金銭を支給しないで、ヘルパーを派遣して、ヘルパーによる介護というかたちで現物を提供している。法律は介護給付費という金銭給付を支給するという規定(障害者総合支援法28条)になっていますが、実際の運用は、いわゆる代理受領方式つまり金銭を本人に支給する代わりにサービス提供事業者に支払うことによって、本人はヘルパーによる介護そのものを受けることできるという方式を取っています。でも、介護給付費はもともとは費用保障です。ヘルパーの利用に必要な費用のように、障害に起因する特別な費用の保障と障害年金とは密接な関係があり、そこには役割分担があるはずですけれども、役割分担をしかるべく整序して現行の法律ができているかというと、疑問がないわけではありません。

時々、障害者が長期入所施設で亡くなると何百万か、あるいはそれ以上の預貯金が残っていて、「最後に遺族が笑う」みたいな新聞記事が出てくる。そんなことがなぜ起こるのか。それは単なる一例にしか過ぎないんですけれども、何のために現物を支給するのか、何のために金銭を支給するのか。本人が本人らしい生活を営むための自己決定を何もできない環境(長期入所施設)の中で現物給付を受けて、何十年も生活をしていたら、お金(障害基礎年金)は残りますよ。自分のしたい生活ができていないことのひきかえというより、したくてもできない環境に置かれているわけですから。ですので本来のインクルーシブな所得保障のあり方を考えることが求められていると思うんですね。

そうしますと、難しくなるのは、福祉という観点から現物給付を提供したり、福祉という観点から特別障害者手当等を支給してきたものを見直して、差別の禁止、地域社会で自立して生活する他の市民と平等の権利の保障という障害法の視点から、障害者の社会参加を真に人間らしく保障していくとなると、どういう費目のお金がいくら必要なのかを、一人一人の障害者の生活目標、自己決定に則してきちんと判断して支給決定していく必要がある。しかし現状では、福祉的な観点からの現物給付と福祉的な観点からの障害者特別手当という、どこかどんぶり勘定とも思える支給になっているわけで、それをきれいに洗い直して、本当の意味でのパーソナルアシスタンスのための費用を保障する制度へ立て直すことが必要になってきます。しかしそれは、なかなか短期間に実現できることではないと思います。介護給付費も特別障害者手当も歴史的に形成され、社会的に受容されてきた、そういう歴史を全く無視して、白紙に何かものを書くように制度設計できる問題ではないという難しさがあるように思います。そうだとしても、障害年金のあり方とともに、障害に起因する特別の費用の保障のあり方についても、障害法の視点から検討を迫られている課題だと考えています。私の試論は前掲の拙論(18頁以下)に述べていますので、ご参照いただければ幸いです。ご清聴ありがとうございました。

 

 

第Ⅱ部 参加者との意見交換

 

安部 ありがとうございます。河野さんから、事前にお配りしたレジュメにそって、論文の骨子といいますか、いろいろ問題を投げかけていただきました。それを受けて、ここからは出席者の皆さんから質問なり、ご意見をいただきながら、議論をすすめていきたいと思います。

 

なぜ「障害者像および法理論の転換」から出発すべきなのか

 

福田素生会員 埼玉県立大学の福田と申します。河野さんのことは以前から存じ上げ、尊敬申し上げているのですが、今日の河野さんのお話、配布された論文を含め、改めて興味深く、読み、聞かせていただきました。実はさっき河野さんにも抜き刷りを差し上げたのですけれど、私も今年7月に、国立社会保障・人口問題研究所が出している『社会保障研究』という学術誌に障害年金に関する判例評釈と「障害年金をめぐる政策課題」という拙文を書かせて頂きました。その私の拙い論文と河野さんから配布頂いたレジメや論文に共通点が非常に多くて、後で河野さんが読まれたら、まねしたのではないかと思われるような中身になっている部分もあります。河野さんから配られた論文を読んだのは初めてで、知らずに自分の論文を書いて、結果的に非常に共通点が多い論文になっただけなのですが、一つ決定的に違うことがあります。ここでは、数多くの共通点ではなく、河野さんと違う点を取り上げて、質問させていただこうと思います。

河野さんの論文と私の論文の大きな違いは、障害者の権利条約を踏まえた新しい障害者像とか、法原理の転換とか、そういう河野さんが総論的というふうにおっしゃっている部分は、私は一切ロジックとして使っていない点です。例えば、河野さんも取り上げておられる、何故、日常生活能力を基準に障害年金(1,2級)の障害の程度を判断しているのかを例に考えてみたいと思います。障害年金制度の目的が稼得能力の喪失、低下に対する所得保障である以上、制度目的から目的合理的に考えると、障害認定の基準も稼得能力の喪失、低下の程度となるのが本来の姿のはずです。しかし、実際には、稼得能力ではなく、日常生活能力を1,2級の障害認定の基準にしています(国は、厚生年金の被保険者と異なり、無業者も対象としているため、(厚生年金のように)労働能力を基準にするのはなじまないと国民年金の創設当時は説明していました。)。稼得能力とは異なる日常生活能力を障害認定の基準にするのはおかしいじゃないかという点までは、河野さんと全く同じなのですが、違うのはその後の論理(河野さんは、インクルーシブ所得保障などの総論的なコンテクストから批判されています)で、私のロジックは次のようなものです。

ご存じのとおり、国民年金制度は、社会保険方式への反対も強く、非常に小さいものとしてスタートせざるをえなかったこともあり、障害の範囲についても厚生年金(当時は、労働能力を基準に1級から障害手当金までの4段階)よりも狭かったわけです。その後、1985年に年金の制度体系を変える大きな改革があって、成熟化が進む国民年金制度を救済するため、老齢年金を2階建ての制度体系にする必要があり、それで障害年金の方も、1,2級については国民年金の障害の基準に合わせて2階建てとし、厚生年金についても日常生活能力を基準に判断するようになったのではないか。つまり、私の説明は、障害とはこういうものだからとか、障害を新しい視点からこういう基準で判断することにしたからといった演繹的なものではなく、制度内在的というか、むしろ老齢年金財政に引っ張られて、年金改革の中でそうせざるを得なかったというような説明になっているわけです。そういう歴史の中で、障害者の就労支援とか障害者福祉などの隣接の障害者制度が少しずつ進んでくるわけですが、支援費や自立支援の制度ができたり、障害者雇用の大きな改善があったりしたときでさえも、「障害」の定義を含め、障害年金との関係はほとんど、整理、調整されないまま今日に至っているので、障害年金を受給後に(福祉的)就労ができた障害者が年金を切られてしまい、裁判になるといったことも起きてしまっているわけです。つまり、障害関係の各制度が連携の取れていないバラバラの対応をして来た結果、言わば、なし崩しでやってきた結果が現状の不合理な障害認定になっているのだという、そういう説明をさせていただいています。

 障害者雇用、障害年金、特別障害者手当、障害者総合支援法、・・・確かに皆、障害という、同じ言葉、共通の言葉は使っていますけど、雇用系、所得保障系、サービス系など対象としている障害の定義はそれぞれ相互に異なり、対象者は異なりますし、制度の目的も違うわけですね。そういう中で、障害者の人権といった原理的、演繹的、画一的な言説が、本当に様々な方がおられる障害者の福祉の向上に実際―全く同じ障害の状態にあっても認定を受けた場所、時期、認定医などの違いにより年金受給の可否が異なり、河野さんがおっしゃる最低限の形式的平等すら守られていないのが今の日本というのが私の現状認識です―、どれだけつながるのだろうかと思わなくもないわけです。

私はもともと厚労省OBで発想が現実的、実際的にすぎるのかもしれませんが、むしろ以下のような具体的な対応の方が、結果的には障害者の福祉の向上に実際につながるのではないかとも思うわけです。具体的な対応というのは、つまり、身体、知的、精神、難病など障害の種類、生まれつきあるいは、就業前後など、どのタイミングで障害になったかなど、障害を、きめ細かく場合分けして、マトリックスを作って、それぞれの就労、所得保障、サービスなどのニーズをきちんと把握した上で、それに対し、どういう制度がどの場合に、どう連携しながら対応していくかを一つずつ丁寧につぶしていくみたいな気の遠くなるような、具体的で地道な作業をする以外に、障害者施策を公正、着実に進める道はないのではないかというのが今の私の結論なわけです。そういうきめ細かく、地道で実際的な作業が求められる中で、総論的、抽象的な議論に多くの時間を使うことに、どれだけの意味があるのだろうと、あえて乱暴に言わせていただければ、そういう感じがしないでもありません。

ついでに付け加えさせていただけば、河野さんのお話を聞いていて、人権といった総論的なロジックを武器として今の日本で使いたい場面は、私個人としては、まず精神障害の医療の部分ではないかと思っています。措置入院、医療保護入院とか、そもそも障害者の同意すらなく入院させられるもの、ほとんど憲法違反じゃないかと思われるものが、そっくり残ってしまっているのに、そのことについては、十分な議論すらなされていないような印象があります。

もちろん、いまだに世界の精神科病床の約5分の1が日本に集中しており、入院を必要としない多くの方が長期の入院を強いられていること、そうした病床が最近は認知症の高齢者のケアの場として転用、流用されていること、そして入院している方の身体拘束みたいな問題もあります。呉秀三さんの言葉を引用するまでもなく、私には、日本の恥とも言うべき本当に深刻な問題のようにも思われ、こうした問題にこそ、人権といった総論的な原理や国際的な動向などを武器にしてもっと議論を喚起したらいいのではないか。そちらの方が順番が先なのではないか。だから、成年後見の話なんかは読ませていただいて、すごく面白かったのですけれども、そういうところでこそ、総論的な議論を使うほうがいいのではないかなという気がいたしました。

 あと少し、細かいことなのですけど、質問させていただきます。私の理解不足であれば申し訳ありませんが、河野さんは、行政・専門職が管理するサービスから自己管理サービスへ転換というお話の中で、行政がニーズを判定し、判定したニーズに基づきサービスを提供することの限界のようなことをおっしゃったとように思いました。上野千鶴子さんという社会学者の方が、以前、介護保険の「要介護認定なんかやめてしまえ」とおっしゃったのをご存じかもしれませんけども、私は行政の中で介護保険を作った側の人間として、要介護認定をやめたら介護保険はあっという間に壊れてしまうと現在でも思っています。もちろん、要介護認定は保険者としての行政の仕事であり、介護認定審査会という第三者機関をつくって、基本的にその結論を保険者が追認するという仕組みになっていますが、やはり利用者のニーズを客観的に認定する仕組みがどうしても要るのではないか。もし、河野さんが利用者たる障害者の主観的な意向に合わせてそのニーズを判定すべきとおっしゃっているのだとすれば、それはちょっと賛成できないという感じがいたしました。

 もう一つ、セルフダイレクテッドサポートについておっしゃっていたのですが、それでは(客観的なニーズの判定を前提に)ケアマネジメント付きで利用者の選択に基づく契約により利用者本位のサービスの提供を目指すという現在の仕組み以外に具体的にどういう利用の仕組みを考えておられるのだろうかということがあります。ケアマネジメントの標準化が進まず、特定の事業者と結びつくなど公正で利用者本位になっていないという批判は良くわかりますが(それはケアマネジメントの在り方の問題ではないでしょうか)、セルフダイレクテッドサポートになると、ケアマネジメントはなくなるのでしょうか。また、現金給付とおっしゃるなら、河野さんは、ドイツのように介護の現金給付も肯定されるお立場になるのでしょうか。ご存じのようにドイツでは約半分が現金給付ですが、もし、障害の方がそうなるのであれば、障害と高齢者介護との関係をどうするかという問題もありますが、基本的には高齢者介護でもそうしないと一貫しないのではないかという感じがしております。セルフダイレクテッドサポートは、障害者総合支援法(+特別障害者手当などの社会手当)に対応するお話のように思いましたが、セルフダイレクテッドサポートと障害年金の関係はどう整理されるのかなど、まだまだお聞きしたいことがあるのですが、大分長くなってしまいましたので、取りあえずこれぐらいにさせていただきます。ありがとうございました。

 

河野 とても大事ないいご指摘をいただきました。全てに適切な答えができるとも思いませんけれども、最初の障害基礎年金ができた経緯というのは、福田さんがお考えでご説明されたとおりで、そこは多分、議論の余地のない、共通の認識があるところだと思いますけども、それは厚生年金と国民年金という制度上の制約を受け継ぎつつ、障害基礎年金をどう設計するかという制約の中で生じたことなので、福田さんがおっしゃりたいことは、そこに障害についての考え方の転換だとか、人間像の転換だとか、法原理の転換だとかという総論は要らないんじゃないかということでしょうか。

 

福田 いや、というか河野さんの総論に何も反対なわけではなく、むしろ基本的に賛成なのですが、障害の定義も制度ごとに異なる中、障害者の権利条約などの総論なしでも障害年金などについては議論ができるし、抽象的な議論に多くの時間を使うよりも、具体的に検討する方が結局、障害者の福祉の向上に早く結びつくのではないかということです。

 

河野 なしでも言えるんじゃないかっていうご指摘ですよね。そのとおりなんでしょうね。別に私も総論的に、人間像の転換とか、法原理の転換から障害基礎年金ができた経緯を説明しようとはもちろん思ってないです。そうなんですが、これから例えば、障害者の24時間介護保障の課題でも、あるいは介護保険と総合支援の併給調整の問題でも、あるいは就労中の介護保障の課題についても、いろんな面でこれまでの障害者の保障の在り方を見直さなきゃならないというところは出てくるというふうに予想しています。その見直しを長期的展望として一貫した発想の下に引っ張って導いていく、そういう理念というのは要るんだろうと思います。そして、その理念はやっぱり障害者権利条約が定めたところに求めるべきだと思います。

わが国の場合は、障害者権利条約の批准に備えて障害者差別解消推進法を定めましたし、障害者基本法も改正しました。さらに障害者総合支援法も改正した。で、批准に必要な国内法の関係法はこういうふうに改正しているので、仮に条約を直接の根拠として国内法の条約違反が法廷闘争として争われることになったときには、法秩序全体として条約違反という問題が生じないように国内法の改正でそれは済んでいることだという解釈の仕方がなされると思うんですね。しかし、それもまずいので、私は障害者総合支援法の部分改正で、条約が定めている締約国の義務がすべて履行されたとは考えられませんので、長期的展望と一貫した発想のもとに障害者の支援の見直しを導いていくため、人間像の転換とか法原理の転換といった総論的な考察が必要だと思っているわけです。

 

福田 でも、結局、多様な障害をきめ細かく場合分け、類型化して、それぞれに必要なサービスとか、就労支援、所得保障などの在り方を、具体的、総合的に考えていく地道な作業をすることにしかならないのではないかというのが今の私の結論です。河野さんが総論をお立てになることに何も反対ではありませんし、考え方そのものには基本的に賛成です。でも総論、抽象論から入っても、結局、制度ごとに定義が異なる中で、極めて多様な障害をきめ細かく場合分けをして、どういうニーズがあるかというのを、障害者類型ごとに整理して、具体的、総合的に所得保障やサービスなどの制度を用意するという気の遠くなるような作業をするしかないという点では同じことになるのではないかという気がしているわけです。

それからニーズについて、障害者の主観的な意向に合わせるのではなく、障害者のニーズを客観的に判断する要介護認定のようなものが必要だということを申し上げさせていただきました。河野さんが、行政が要介護認定をして、ニーズを決めているというふうにおっしゃって、河野さんはそれを否定されているのかなと思ったものですから。

 

河野 否定しているわけじゃないんですが。

 

福田 では、誰がニーズを判定するんですか。(社会保険だと保険事故の発生の確認は保険者が行うことになりますが)福祉の制度だと行政がやることになってしまいます。

 

河野 行政専門職はニーズを判定してもいいんですけど、それしかないと言えば、それしかないんですけども。でも、私が言いたかったのは、ニーズに基づく制度設計に合理性が認められる一方で、ニーズ・オリエンテッド・システムの持つ限界性というのがどうしてもあって、その限界性が、障害者の運動の中で少しづつ克服されてきて、ニーズ・オリエンテッドでありながら、それを行政専門職の判定に委ねるんではなくて、障害者自身が自らニーズを判定する。自らニーズを判定したものと、ソーシャル・ワーカーが専門的な知見を使って判定したものとすり合わせながら、最後に協議をして合意を得るという方式、つまり自己管理サービスの方式が作られてきたということです。

 

福田 保険者(介護保険の場合は行政)がその結論を尊重する第3者機関たる介護認定審査会に当たるものをつくることはできますよね。福祉の制度である障害者総合支援法にも、一応市町村審査会みたいなものがありますし。

 

河野 そのセルフアセスメントと、協議のプロセスというものがやっぱり、介護保険のニーズ・オリエンテッドとは違うんですよね。そこにパーソナルアシスタンスとの違いが出てくるというふうに僕は認識しているんです。私の説明が不十分で分かりにくいと思いますので、ご関心のある方は、拙稿「障害者の自己決定権の保障と給付決定における公正性の確保――イギリスの試み」障害学研究9号、2013年を参照していただければ幸いです。

 

橋本宏子代表 すみません。時間があまりないので、これでよろしいでしょうか。

 

福田 大変申し訳ないです。

 

橋本 そんなことはないのですが。今、福田さんがおっしゃっていることについては、「障害者の自己決定権と給付決定の公平性」という、河野さんの論文を見ていただくことにしてください。

ここでは司会を差し置いて申し訳ありませんが、河野さんが、謙虚に自分のこの理論で、現場はうまくいくかどうかと、おっしゃっている辺りのことについて、皆様のご意見を伺いたいと思います。せっかくですので。

 

障害年金の審査認定における社会モデルの位置づけについて

 

野口卓司会員 社会保険労務士の野口です。きょうは河野さんがお越しになられるということを前々から、橋本さんに伺っていまして、是が非でもと思い参加しました。

私は理解が浅いので、いろいろご指導いただければと思います。気になっていることは、障害年金の審査において、就労をどういうふうに捉えるか、特にそれを「社会モデル」の考え方とからめれば、どうなるのかということです。社会モデルの考え方には、障害は社会に原因があるとの考え方や、障害に対して社会が責任を持つとの考え方等があろうかと思いますが、浅学にして、社会モデルの考え方がよく理解できておりません。

そこで障害年金の審査においてなんですが、例えば、保護的環境下にあって、いろいろサポートを受けて就労しているということであるならば、障害年金の請求手続きにおいて、そのようなサポートをこうやって受けているんですよ、ということをしっかりアピールしていく。

 こうしたやり方は医学モデルを踏まえてということだと私、思っていますけれども、要は保護的なことがなくしては就労ができないほど、機能障害とか能力障害があるんだと。つまり、背景に、障害自体は重いんですよということで認定を受けていきたいという思いがあるわけです。これは私の理解では、医学モデルに準じたものと考えています。一方、社会モデルで考えていくならば、保護的環境下で就労ができているのであれば、就労自体はできているわけですから、社会的障壁そのものが軽減、あるいは壁が低くなっているんじゃないですかと。その分だけ、障害の程度が軽いということになりますと、社会モデルによるとそうやって障害は軽減されているわけですから、年金自体は支給しなくてもいいんじゃないか、あるいは減額してもいいんじゃないかという考え方になってしまうのかな、どうかなというところが、ちょっと自分では悩ましいところではあります。

もう少しだけ観点を変えて申し上げますと、個人に対して金銭給付を行う障害年金という方式ではなく、保護的なことを行っている当該企業にもっと補助を支給するべきじゃないか。あるいは合意的配慮ということが企業に対しては求められていると思いますけれども、これはあくまでも努力義務ですので、そういった支援をやっている所にもっと補助すべきではないのかなと考えたりしています。

ただ、あくまで個人、その障害者個人を主体として考えると、河野さんがおっしゃるように、保護の対象から権利の主体へという観点からいくと、パーソナルな個人への支援として、何回も強調されましたパーソナルアシスタンスといった考え方、同じくこれも金銭的な支援がまず先立つものと思うのですけど、障害年金というよりは、あらかじめ目的が決まっているところのパーソナル支援、パーソナルアシスタンスのほうをもっと充実させるべきじゃないのかなということも思ったりしたんです。いずれにしろ、社会的モデルをどういうふうに捉えるべきか、考えればいいのか、ということによって障害年金の在り方も変わってくるような気がしたんですが、いかがでしょうか。

 

河野 難しいですね。

 

橋本 でも、重要な質問ですよね。

 

河野 多分、野口さんが問題提起されたことの10分の1も、今、私は理解できていないんじゃないかな、と思いますが、社会モデルは確かに分かるけれども、障害認定基準の当てはめというか、障害認定にあたって、社会モデル的な考え方がどういう役割を果たし得るのかというところで、問題を提起されたようにお聞きしました。そういう理解でよろしいでしょうか。

 

野口 はい。

 

河野 結論から言いますと、結局は医学モデルでどの程度の機能障害があり、それがどの程度の労働能力の制限になっているのかということを、立証するしかないじゃないかと思います。現に医師の診断書を添えてやっているわけですから、結局は医学モデルに依拠する以外ないんで、どこに社会モデルの役割というか、果たせる余地があるのかという、そういう問題意識ではないかと思って、ずっと聞いていました。

 

野口 現行の障害認定基準は別に社会モデルに立脚しているとは、私はあんまり思っていないものですから。

 

河野 私もそう思っています。現行の障害認定基準の下でも、日常生活能力や労働能力の制限の有無、程度等を判断するにあたって、医学的な機能障害の所見だけに頼らないで、できるだけ広く障害者の置かれている環境や社会的な条件を考慮して判断するように改善する余地はいくらかあると考えますし、現に野口さんも意識してそのように活動されているというご意見だったと思います。

しかし、そこから更に進めて、社会モデルに立脚して、障害年金のあるべき姿を提起するとなると、それはたいへん難しいことです。私には具体的な制度設計案はありませんが、ただ、社会モデルの観点から障害年金のあり方を考えるとすれば、少なくとも次のような論点を考慮に入れておく必要があると思っています。

(1) まず、「社会モデルに立脚して」ということの理解の仕方ですが、力点の置き方によって多様な見解があることと思いますが、私は、ここで紹介しましたICFにおける障害の構造的な捉え方を踏まえ、そのうえ障害者権利条約に定められたように「障害者は機能障害だけではなくて、社会的障壁との相互作用によって、一般の市民と同じように地域社会で自立して生活することを、あらゆる面で妨げられている」という障害の理解に則して、稼得能力の喪失・減退(すなわち障害年金の要保障事由)の有無・程度を認定する方式へ改革することだと理解しています。

(2) 最も重要な論点である障害認定のあり方については、基本的には、医学モデルに立脚して「定型的な機能障害のリスト」に当てはまるかどうかを判定するという現行方式から、社会モデルに立脚して「稼得能力の喪失状況を社会的背景・条件をも考慮して個別的に審査する」方式へ移行する、もしくは前者の方式を第1段階とすると第2段階として後者の方式を加味するというような抜本的な検討が必要ではないかと考えています。

(3) 社会モデルに立脚した新しい方式の下では、審査体制も医師のみに依らず社会的要因を判断できる専門職まで含めた個別的な審査体制の整備が論点となるでしょう。

(4) また障害認定の手続過程においては、就労支援ニーズのアセスメントに始まり、就労計画・リハビリ計画の策定にいたる過程などが想定されますが、その過程において障害当事者(必要に応じて権利擁護者を伴うことを可能とする)の主体的な参画を認めること、そして、このような主体的な参画は、稼得能力の喪失状況を判定するための重要な手続要件とすることも論点となるのではないでしょうか。

(5) 現行の年金制度では、社会保険の保険事故(要保障事由)として「老齢、障害、遺族(生計維持者の死亡)」の3つは、稼得能力を長期的に喪失した事故という点で共通する性質を有すると考えられていて、かつ老齢を中心に制度設計されているわけですが、老齢を中心とする年金設計に付随した形で障害年金の支給要件や年金額が定められていることによって、障害の社会モデルの視点から見ると、障害の特性が無視されたり(ネグレクト)、歪められたり(不公平)という結果となっているのではないか。仮にそうだとすると、老齢年金制度の枠組みから外して、障害年金制度を創る(例えばスウェーデンの年金改革)ことも、論点になると考えられます。

現行制度で無拠出の障害基礎年金は、20歳前の障害について、20歳から被保険者(拠出義務を負う)とする社会保険制度の制度的な限界ゆえに、拠出要件を満たしえないものとして、拠出制原則の例外として、20歳から基礎年金を支給するという制度になっています(つまり、保険原理に基づき本来、拠出要件を満たすべきところ、例外として許容される障害基礎年金となっています)が、これも社会モデルの視点からは、20歳後の障害を含め、社会的障壁によって社会参加(就労)できない構造的な差別・不利益にたいして、社会的責任として基礎年金を支給する(つまり、社会的責任原理に基づき本来、無拠出であるべき障害基礎年金)というように抜本的に立てなおすという論点も考えられます。この場合、新しい障害基礎年金と拠出制の障害年金の2階建方式のあり方も、当然、連動して大きな論点となるでしょう。

以上の他にも、障害年金制度の制度設計となると、考慮すべきことは多々ありますが、社会モデルへの転換という問題意識から、障害年金のあり方を考えるときは、以上のようなことを少なくとも検討する必要があるように思います。)

 

野口 ただ、社会モデルという考え方を導入して考えると、どういうふうに障害を認定すればいいのかなということになってくると思うんですね。そこにおいて、障害年金の果たすべき役割がどこまであるのか。あるいは、障害年金がなくても済む、あるいはもっと他の方策を充実させるべきことにつながってくるのか、どうなのかなということなんですね。

 

 

河野 「インクルーシブな所得保障」という発想から言えることは、一つは障害年金制度を「お金さえ支給しておけば役割は済んだ」としないで〈その年金を受給できない障害者が多いことが、まずは問題なのですが、それはここでは措くとして、仮に年金を受給できたとしても、それでよしとしないで〉、年金支給に先立って早期リハビリテーション・就労支援等との密接な連携を創る必要があるということです。そしてもう一つは、稼得能力の喪失に対して障害年金を用意するだけでなく、障害に起因する特別な費用についても、あわせて所得保障として考える必要があることです。この「あわせて所得保障と考える」方式の一つとして、「個人予算化とダイレクト・ペイメント」という方式が考えられるのではないかと思っています。障害者権利条約19条にいう、すべて障害者が「地域社会で自立して生活する他の者と平等の権利」をわが国でも実現できる手がかりがそこにあると考えるからです。

 

「稼得能力」の判定をめぐって

 

安部 野口さんが冒頭に言われたのは、特に発達障害とか、精神障害の方で援助とか、支援を受けて就労できている場合に、どこの部分を要保障事由というふうに、審査を請求する側が主張していくのかというところだと思うんです。援助がない中での障害なのか、あるいは援助があった上でのその稼得能力なのかっていうところで、そこでちょっと悩みがあるっていうお話だったわけです。

そこについては、ちょっと私は河野さんにメールでお伝えしている内容で、河野さんのレジュメの最後のほうにある援助、補装具、医療等を受けた上での稼得能力の判定なのかどうなのかっていうことに関わってくることだと思います。河野さんのお話にもあったとおり、私は援助した上での稼得能力の喪失の程度により認定するというふうに、本来的には考えるべきだと思います。ただし、そのためには、外部障害の人も含めて、すべての障害がそのように認定されることが大前提です。つまり、車いすの人も車いすを使った状態での稼得能力の喪失の程度を判断するということです。そして、さらに、その結果であっても、現状は発達障害とか、知的障害の方が十分にお給料もらっているかっていうと、本当に最低賃金ギリギリのところで、月収でいうと東京なんかだと13万ぐらいしかないっていう中で、それが一生ほぼ続くっていう方がほとんどなわけで、そういう人が所得保障の対象にならないのかどうなのかっていうふうに考えると、私は一応、所得保障の対象になるだろうと。ただ、やっぱり減額調整の対象になる、なり得る可能性はあるのかなというふうに思っているところではあるんです。さっきの野口さんの話を引きついでお話ししました。

 

「稼得能力」だけに問題を収れんさせていいのか

 

橋本 ちょっとだけいいですか。河野さんは、論文で障害年金においても就労能力の制限を重視して、障害認定することが本来の目的に沿うことは自明であると書かれています。どんな教科書にもそれらしきことが書かれています。これに異論を唱えるのは非常に難しいでしょう。私の理解に間違いなければ、安部さんもよく障害認定の請求をするときには、この人は昔はこんなに働いていたのに、今、障害のためにこんなに働けないのだ、ということを強調されると伺った気がします。現状では、そういう解釈をせざるを得ないのかもしれません。しかし、少なくとも立法論的というか障害者権利条約の精神からすると、過去に働けたのに今は収入がないから、それを保障するという考え方は、障害者権利条約が強調する人間の主体性、言い換えますと、その人なりのあるがままの状態を本人の生存条件とみる見方からすれば、ちょっと矛盾するのではないでしょうか。皆さんはどうお考えでしょうか。

 

河野 安部さん何か、ご意見を。

 

安部 橋本さんの話を私なりに理解すれば、日常生活能力というのを河野さんはこの論文で、稼得能力を重視して認定すべきではないかとおっしゃっていると思います。ただ、私は稼得能力オンリーで障害年金の支給の対象になるかどうか、あるいは等級を何級にするのかっていうのを判断すべきなんじゃないかと。それが障害年金における社会モデルに基づいた運用ということになるんじゃないかと思うんですね。社会モデルっていうのは結局、社会的不利、ICIDHのほうが言葉として言いやすいので社会的不利っていうふうに言うと、結局、社会的不利っていうのがやっぱり稼得能力を減退、喪失しているっていう、障害年金の場合で言うと、その程度になるので、それでもって純粋にそれだけで等級を認定する、支給対象かどうかっていうことを判断するっていうことが、障害年金の場合の社会モデルを反映させた運用の仕方、あるいは制度的な設計の仕方になると私は思っていて、ただそれと、橋本さんは前から言ってらっしゃるんだけど、全然違う考え方で稼得能力っていうのは、資本制社会の中で労働力商品として働くことを強いられるという、そのあり方を前提にすべきなのかどうなのか。基本的には稼得能力っていうところじゃないところを、その支給の要保障事由とすべきなんじゃないかっていうことを前からおっしゃっていて、ただ、その中身っていうのは、まだ今のところ私ははっきり分かってないところがあるんですけど(橋本註:このあたりについては、ウエブジャーナル創刊号掲載の小稿で私の考えを述べたいと思います)。

 

安部 河野さん、どうなんでしょうか。解釈上の問題として、稼得能力を含むけれどそれだけではないという考え方に対しては、その辺はどうですか。

 

障害年金と障害に起因する費用の保障を分けて考えたい

 

河野 日弁連のハンドブックで、稼得能力の制限を重視して障害要件の成否を結論づけるというのではなくて、日常生活能力の制限の中に稼得能力の制限を含めて解するというふうに広く解する立場が取られているのは、結局は、労働収入の喪失に対する生活費の保障だけでなくて、障害ゆえの特別の出費に対する保障など、障害者の所得一般の保障の役割を障害年金にやっぱり期待しているというか、そのような所得保障全般の役割を障害年金に含ませるしかないじゃないかと。今の制度上は、そういう現実的な判断がハンドブックの執筆者におありなのかなという気がするんですよ。だから、障害年金にかなりの期待を寄せている。もらえるものはもらえるように、障害年金の目的と障害要件はできるだけ広くつかまえようと、そういう解釈論を残しておいた方がいいという発想なのかなとも思います。

障害年金の目的を考えるときに、稼得能力の喪失にたいする代替所得の保障だけでなく、障害者の特別の費用までカバーするものと考えるという、広い捉え方は現行法の一部(1級基礎年金の25%相当分)にも現れています。日弁連のハンドブックでは、たとえば「年金制度の主な目的は所得の喪失や減少に対して、所得保障を行うことであるが、障害年金では、障害ゆえの日常生活・社会生活上の不利益に対する填補<必要な援助者への費用等>も目的としている。」(79頁)という叙述に、そのような広い捉え方が表明されていると思います。その点、私は、稼得能力の喪失と、障害に起因する特別な費用とは、要保障事由として区別されるべきであって、それぞれの要保障事由に適切に対応する所得(または現物)保障が必要であること(たとえば、1級障害者だけに25%の介護費用相当分を付加するのは、2級障害者で介護を要する人を合理的な理由なく差別するものであって、1級障害者の25%分は削除のうえ、別途障害に起因する費用に対する保障へ再編すべきである)、そのうえで、障害年金制度と障害起因費用の保障制度(個人予算化とダイレクトペイメントを含む)は、インクルーシブな所得保障の両部門として体系化されるべきと考えています。ですから、ここはハンドブックと私との解釈の違うところと感じます。

 

安部 あと、実際にその機能障害で例えば、盲目の人とか、1級をもらっているわけですよね。それでも働いて高収入を得ている方もいらっしゃる。そういう方は、稼得能力だけで認定すると、なしでいいんだっていうことになってしまうので、それはかなり影響が大きいということもあるのかもしれない。

 

河野 だから、そこのところで、障害年金の役割と、障害に起因する費用の保障という、もう一つの制度の役割を仕分けする。本当はこちらが充実すれば障害年金ももっと障害者の生活保障に寄与することになるのではないか。パーソナルアシスタンスに相当するものを金銭で支給することができたら、もっと障害者の社会参加の支援になるというふうに考えられないか。そこに対する一般の関心がまだ日本でないだけに議論の中に登場してこないのかなと思いますが、議論の中に登場させていく一つの手段として、個人予算化という方式を日本に取り入れられるかどうか提案してみたい。

すべての障害者に一律に取り入れるのではなくて、障害者の中で個人予算方式を選択したいと、そういう方法をやってほしいという人が出た場合には、たとえば仮にAさんが重度訪問介護、同行援護、療養介護、補装具等をも受けている場合、それらを全部金銭で支給されたときに、月いくらの給付になるか。個人予算として総額を合算した上で、それをどういうふうに本人らしい生活の実現に使うかというのを、本人中心にプランニングしていく。障害者はそのプランニングに基づいてちゃんと本人の生活の目標に向けて使われているということを、行政・専門職に対して説明しなくてはならない立場に立ちますし、そのプロセスで障害者がきちんと果たすべき責務もあるんですが、まずは個人予算という方式を選択した障害者には、その方式の利用を認めるということを日本に導入できるかどうか、その可能性があるかどうかを検討したいと思っています。この方式はイギリスの試みを参考にしています。これは現行の障害者総合支援制度を、障害者の権利条約に沿った制度へ転換していくのに大きな意義を持っているのではないかと期待しているのです。

なお、個人予算化の導入の可否を検討する際に留意すべき点の一つは、現物で提供されている重度訪問介護等については、現行法の下でこれを金銭給付(償還払い)に切り替えても、障害者総合支援法による介護給付費等の枠組みに従って、障害福祉サービスの購入に当てなくてはならないことです。これでは金銭給付に切り替えてもあまり意味はありません。したがって個人予算化とダイレクト・ペイメントの導入にあわせて、「障害に起因する費用」の費目・金額・使途等について現行法の枠組みを超えた再検討が不可欠となることは言うまでもありません。

なお、安部さんのご指摘の例(1級の盲目の方で、働いて高収入を得ている人の場合、稼得能力だけで判断すると、1級障害年金を受けられなくなるという例)は、現行法の解釈運用の際には考慮に入れておくべき事例と思います。ただ法改正(立法論)を論ずる際には、経過措置(従来から受給している年金は、改革後も引き下げたり廃止したりしない、といった経過措置)で対応可能な論点と考えられますので、抜本的な障害認定基準の改正の論点(すなわち稼得能力の制限を判断基準とするか否か)からは一応除外して考えてもよいのではないでしょうか。

 

野口 よろしいですか。そのパーソナルアシスタンスの制度についてなんですけども、私、本当勉強不十分でよく知らないんですが、ネットで検索なんかしてみると、札幌市で「パーソナルアシスタンス制度について」というのが出てきたりします。そこだと平成22年度に札幌市では開始して、同様の制度は国内の他市町村では行われていないというようなことが書いてあるんですが、これ、ごめんなさい。私が今見ている資料はいつ作られた資料か、ちょっと知らないんで、分からないんですけど。他の市町村でも、もうそういったような制度を導入されている所ってあるんでしょうか。

 

河野 私もそれはチラッと見たことがありますけど、私が日本におけるパーソナルアシスタンスの一つの実現の仕方をしていると思ったのは、介護保障ネット(藤岡さんが中心になっておつくりになっているネット)が自治体と交渉して実現した前述の事例です。この事例では、障害者の自立生活運動団体が運営するヘルパー養成課程を修了した人で、その養成課程を通じて障害者本人と個人的な信頼関係ができた人にもっぱら、ヘルパーとして来てもらって、それに市から24時間介護の介護費を支給してもらうというところまで交渉で実現している事例でした。実際上、障害者団体が自主的に運営する組織で養成されたヘルパーさんで、障害者本人との間で、この人こそと思う個人的な関係ができた、そういうヘルパーさんに来てもらって、障害者本人が介護の提供の仕方を管理している、それに総合支援制度上の介護費が支給されるというように実施されているんですが、これは日本的なパーソナルアシスタンスの実現だなと思って感心しました。

 

安部 ちょっと弁護士の方、全然発言がなかったんですが、どなたかありませんか。事務局長、代表していかがですか。

 

社会モデルを実践レベルで組み入れることの難しさ

 

関哉直人会員 今日はどうもありがとうございます。さきほど野口さんも言われたんですが、実務ですと社会モデルをどう位置付けていいのかがよく分からない部分があります。認定基準の下にあるようなガイドラインですと、支援を受けている知的障害とか精神障害の方がいて、その支援を受けている状況も踏まえてその人の稼得能力を評価している面があって、支援を受けているということは、その分を差し引いて、それを一つの能力として、おそらく機能障害に近い能力として見て、これを評価して年金の判断につなげているように思えるんです。しかし他方で、社会モデルを純粋に採り入れると、社会的障壁との相互作用で社会的な不利益を受けているという状態なので、本人はその社会的障壁がないというか、ある程度取り払われた現場で働いていて、実際に収入が低くなるという不利益を受けていないということになる。つまり、社会モデルを全面に採り入れれば、その状態は本人にとって障害がない状態で、稼得障害として捉えればですけれども、稼得障害がない状態で年金を支給しなくてもいいというふうに結び付きそうです。

しかし今日のお話を聞いていて、社会モデルを採り入れたとしても、そこの現場での配慮っていうのは、あくまで個人に対する個々の現場での配慮すなわち合理的配慮であって、不安定なものであると。それが環境にまで転換して、本人が安定的に働ける環境の整備として確保された時点で、おそらく稼得能力が安定的に維持できている状態というふうに年金は評価して、したがってもうこの場合は年金出さなくてもいいねと判断して支給停止というのが起きると。そのように整理すると、社会モデルを採り入れても、個々の現場での不安定な合理的配慮にとどまるものというのは、年金の適用場面では、その年金排除の理屈としては使わずに、環境の整備まで高められた状態を年金不支給の判断要素として使う、そういう整理もできるのかなと思って聞いていたんですが。

 

河野 実際に精神障害があって、総合支援法上の就労継続支援のサービスを受けていて、その人が障害年金2級に該当するのではないかというケースが登場しますよね。就労継続支援は社会的な支援ではあるけれども、支援を受けていてもなお、仮にA型でも工賃が非常に低くて、最低賃金を下回るような収入しかない。しかし、本当に社会的障壁がなくて働きたい所の門戸が開かれていれば、働けるはずのところが、現実には就労継続支援のA型のような所でしか働けない。その収入が最低賃金を下回るような場合に社会モデルの視点から見れば、依然として社会的障壁の中で就労できない者として稼得能力が制限されているという、そういう判断に持ち込む可能性はあるという発想になるんじゃないでしょうか。

 

関哉 そうですね。その場合は、A型でしか働いてなくて十分な収入が得られていないという状態を社会的障壁との関係で捉えると、A型っていうサービスでしか働けない現状があると、それを社会的障壁と捉えるか、あるいは収入が実質的平等や包摂的平等に届かないような、そういった社会における所得保障が十分にされていないという現状自体を、社会的障壁と捉えて、それが除去されていないので年金を出そうと。その点は整理できるかなと思うんですが、一方で、十分収入が得られている人についての判断が非常に難しいなと。精神障害のある方で、これまでは離職を続けていたけれども、今回は非常にいい上司の方で、なんと4年も働けていると。収入もちゃんと月25万円ずつもらっているとなると、所得も得られているので年金の制度趣旨からしても年金は出さなくてもいいと。社会モデルの点からしても、合意的配慮が十全に尽くされた上で、環境も整備され稼得が十分に得られているのだから、社会的障壁もないということで、社会モデルの観点を採り入れても年金を出さなくてもいいと。ただ、現実には本当にそれでいいのかということがあります。

 

河野 その場合、私の理解では、稼得能力の制限に対する所得保障としての障害年金の必要性はなくなったり、あるいは減少したりしているけれども、その人が月二十数万も取りながら、果たしてその人らしく社会に参加することを実現できているか。普通の市民と同じように社会参加していくための費用の保障はどうなのかというと、移動やコミュニケーションやあるいはその人の個性的な生き方の実現に則して考えなくてはいけませんが、それに対する費用の保障がない、あるいは不十分であることがむしろ問題で、それは月25万あろうと、何万あろうと、そうした保障の必要はないということにはならない。それを私は「障害に起因する特別な費用に対する所得保障」として確立することとして考えています。現状では、それが非常に福祉的に介護サービス等の現物給付や障害者特別手当で部分的に手当されているけれども、本当に個人の障害特性や生き方に即応して社会参加に必要な費用は何で、かついくらかということを判定した上で、保障するという仕組みになってないんじゃないかということです。

 

橋本 それは本来的には、河野さんの理解だと障害年金の役割ではないということでしょうか。

 

河野 そうです。障害年金の役割ではない。

 

橋本 でも現状は、そこが十分でないから、広い意味での社会的包摂がなされないという視点から、年金の場合もその分を日常生活、その人にとってのクオリティー・オブ・ライフの問題として捉える余地はあるというふうに考えられないでしょうか。

 

河野 それを障害年金の中に持ち込んだり、障害年金に背負わせようとすると、障害年金の方が非常にあいまいになると思います。

 

橋本 それは現状でも入れないということなんですかね。

 

河野 私はそういう議論をしています。

 

橋本 要保障事由としては入れないっていう感じなんですか。

 

河野 それで、個人予算方式が僕は出てきたと思う。

 

安部 イギリスのやつはそういうの含まれているんでしょうか。

 

河野 イギリスの場合は個人予算方式です。

 

安部 そういう、外へ参加の場を求めて、出ていくことの支援とか、そういうことも丸ごと見てくれている。

 

パーソナル・バジェット(個人予算)という考え方の意義

 

河野 そうだと私は見ていますが、くり返しますが、イギリスではパーソナル・バジェット(personal budgets)といいますが、パーソナル・バジェットとダイレクト・ペイメントというのはセットになっていて、今まで福祉制度の歴史的な沿革から、イギリスでも障害者のニーズは制度ごとに切り取られて、これは手当、これは現物給付という格好で対応されてきた制度があって、それを本当は全部やり変える必要があるが、抜本的にというふうにいかないから、それらをあなたが受け取るものとして、現物給付であろうと、金銭給付であろうと、まとめて一つの個人予算として、予算化しちゃう。月当たり、たとえば60万の個人予算として組まれていますと。その60万を今度は、今までの制度の枠組みに従って使いなさいじゃなくて、あなた自身の生き方に、あなたの設計、プランニングで使っていいですという方式に切り替えました、そういう発想として注目しています。

イギリスでは、パーソナライゼーション(personalisation)という言葉が、障害者政策全体の転換を表す新たな用語として、2008年以来、中央政府によって用いられ始めました。それによれば、パーソナライゼーションとは、社会的ケアの提供の仕方に対する主要な変更を表す用語とされていまして、一言でいえば、個人予算のシステムを通じて、人々に、より強くより多く、選択・コントロール・権限および自立を与えることを目指す政策を表すと言われています。そして、その政策転換は、自己管理型支援(Self-directed support)とも呼ばれます。

なお、ここで個人予算の定義を紹介しますと、「個人予算とは、支援を受ける資格があると認定された人に社会的なケアの予算を割り当てる前払いの金銭給付の方式をいう。非施設サービス型のサービス利用者に限られる。ニーズ判定を受けた後に、地方当局によって、そのニーズを満たすために必要な金額の給付を受ける。ダイレクト・ペイメントは個人予算の利用方法の一つとして位置づけされる。」と定義されます。

 保健省によって発せられた要綱によれば、個人予算の使途は、当事者が地方当局との間で合意した生活目標を達成するための費用に充てるものとして、具体的にこれをどう使用するかは、当事者が自分で選択・決定することとされました(そのさい意思決定支援を受けて決定することもできる、とされました。)。また、2009年福祉改革法(The Welfare Reform Act)によって、それまで細分化されていた福祉関係の財源は一本化されることになりました。具体的には、コミュニティケアの個人予算の財源に、他の福祉基金の財源(たとえばThe Independent living Fund, Access to work grants, Disabled facilities grants, Supporting people moneys(housing support)など)を加えて一本化することとされたのです。

 しかし、自己管理型支援と呼ばれる政策転換は、上記の通り積極的な意義を有する反面、政府の経費節減の手段として利用される側面も有しており、イギリスの障害者運動が今後どのような展開を示すかということとともに、政府の政策動向と実際の運用に注意を払う必要があります。)

 

安部 それは、金額的には日本でも120万とか聞きますよね。重度介護の人とか、月にそれぐらいいっている人もいるって聞いていますが、イギリスのそのケースでどれぐらいのお一人にやられているんでしょうか。もちろん、その障害の重さによるんでしょうけど。

 

河野 私もそういう数字持ってませんけど、イギリスではそれを全額公的に支給する(利用者負担にしない)ということになってないんですよ。個人予算を基にダイレクト・ペイメントで金銭支給するけれど、それのうち、いくらを公的費用で、いくらを自己負担するかということで、やっぱり本人からも取るんです。

 

安部 それは応能でということなんでしょうか。

 

河野 応能と応益と両方の考え方を入れています。それは社会的資源を使って、自分の生き方を実現していこうということだから、社会的資源を使う人の責任として、一定割合は自分の応能と応益両面から考えて、一定の割合は本人にも負担してもらうと。それが個人予算を使う人間の責任という考え方で、どういう計算式かというのは、前掲の拙稿に詳しく書いていますので、それを見ていただければと思います。

 

橋本 関哉さんのさっきの質問に対する河野さんのお答えだと、上司の配慮で例えば月25万円の所得を得られている人は、河野さんの意見だと、障害年金の対象にはならないっていうことになるのでしょうか。

 

河野 そうだと私は思います。

 

関哉 年金という枠の中で現物支給を受けて、障害に起因する特別費用に当てるべきだということで、年金にいわゆる通常の労働、障害のない方を前提とした労働による稼得ということ以外の福祉的な、現物支給的な要素を入れることはなく、それは別物として考えましょうということでしょうか。年金は年金でということで、河野さんはお考えということでしょうか。

 

河野 そう考えているんですけど。それでは現実的に使えないっていうか、かえって困るというご意見でしょうか。

 

安部 ただ、一番問題なのは、働けないのに障害年金の対象になってない人がすごく多いっていうことです。最低、そこからやっぱり変えていかないと。どうしてかと言うと、やっぱり日常生活能力で判断されているからなんですよね。日常生活能力はあっても働けない人はすごく多い、あるいは働けるか働けないか自体を機能障害でもって示すことができない、がんを患っている方とか、難病の方とかかなりいらっしゃるので、実際医学の限界ってすごく感じるんです。そうすると、やっぱり障害年金の対象にはならないっていうことになってしまう。日常生活能力での判定と、それから機能障害を重視したというか、機能障害のみでの判定と言ってもいいと思うけど、それによって、稼得能力を喪失しているのに対象に全くならない人がかなりいらっしゃる実態があります。

 それは河野さんが書いてらっしゃる精神障害よりもむしろ、難病とか、内科的な疾患の方のほうが圧倒的に多いと、私たち、実務をやっている者からすると感じるところなんですよね。障害年金の受給者のうち精神障害の人は、今は6割、7割近いと思いますけど、それだけ精神の方がもらっているというのは、もうドクターも書き慣れているですよね。それと比べてやっぱり内科的な疾患、がんの後遺症とか、がんそのもので倦怠感が大きいという方は全く収入がなくても2級にはならないっていう現実があるっていうのは、難病の方もそうなんですけど、そういうのがすごくやっぱりおかしいっていうか、そうしたことを感じるところなんです。

すみません。ちょっと自分で最後に話してしまって申し訳ありません。議論尽きないんですけど、時間がきてしまいました。河野さん、今日はどうもありがとうございました。

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障害年金法研究会 報告レジュメ(20191016

                            河野正輝  

1 障害法研究の視点

(1)社会保障法・社会福祉法から障害法への転換(?)―そのために法的人間像と法原理の捉え方をいかに進めるか。

(2)法における障害者像

「要援護者」・「福祉サービス利用者」(いずれも障害者を保護の客体として捉える)という障害者像から、「機能障害と社会的障壁の相互作用により社会参加を妨げられ社会的不利に置かれている障害者」(従属的劣位subordinationに置かれた障害者)という側面を直視して、そこから「人権および基本的自由の完全かつ平等な享有主体性の保障をとりわけ必要とする者」という障害者像への転換。そこから、

①教育、雇用、その他全ての社会生活において障害を理由とするあらゆる差別の禁止を目的とする差別禁止法の形成。

②地域社会で自立して生活する平等の権利を保障することを目的とする総合的な地域生活支援法の形成。

(3)法原理の転換 

①差別禁止(平等)の考え方の転換――形式的平等から実質的平等へ、さらに形成的(包容的)平等(transformative equality, inclusive equality)への平等概念の発展(権利条約3条・5条)。そのための具体的手段として、アクセシビリティ(障害者集団に対する事前の義務)および合理的配慮(障害者個人に対する将来に向かっての義務)による形成的平等の実現。

②自立支援の考え方の転換――自由権と社会権の不可分性・相互依存性(一体的保障)の確立へ。そのための具体的手段として、たとえば地域生活支援サービス(パーソナルアシスタンスを含む。権利条約19条)による行政・専門職が管理するサービスから自己管理サービス(self-directed support)への転換。

 

2 障害法の形成へ向けた改革の動向(権利条約批准後の2,3の具体例)

(1)障害者の24時間介護保障問題

行政・専門職管理サービスから自己管理サービス(パーソナルアシスタンス)への実践的な取り組み(介護保障ネットによる行政交渉の到達点)

(2)介護保険と総合支援の統合問題・併給調整問題

  一律の介護保険優先から障害者の選択へ(障害者自立支援法違憲訴訟原告・弁護団の戦い、20181213浅田訴訟広島高裁判決)

(3)就労中の介護

 「個人資産の形成に対する支援不可」(厚労省)から、自治体独自の就労支援(さいたま市)および参議院における独自予算措置、そして全国的な実態調査の実施へ

3 障害者所得保障における転換の可能性と展望

(1)「インクルーシブ所得保障」(仮)の概念と体系

 ここで「インクルーシブ」とは、社会的障壁の除去、社会的包摂を指向する所得保障のあり方を指す。したがって、その所得保障は、稼得能力の喪失だけでなく、障害に起因する特別な費用も要保障事由とする。かつ、所得保障と早期リハビリテーション・就労支援等との密接な連携も含む概念。インクルーシブ所得保障の体系につき拙稿3~4頁。

 

(2)障害認定要件における法解釈上の課題

 ①日常生活能力の制限と稼得能力の制限という2つの評価基準の関係

 

ICIDHからICFへの障害概念の発展の評価――医学モデルから社会モデルへ

ⅰ)1980年国際障害分類(ICIDH, International Classification of Impairments, Disabilities, and Handicaps; A Manual of Classification Relating to the Consequences of Disease 機能障害、能力障害、社会的不利の国際分類;疾病の諸帰結の分類マニュアル)

 (a)障害を3つの次元(impairment, disability, handicap)で捉えた。

 (b)3つの次元のなかに社会的レベルの障害(社会的不利)を位置づけた。

  (注;Handicapsは、後に差別用語との批判を受けることも。)

 (c)問題は、疾病の諸帰結としての機能障害→能力障害(能力低下)→社会的不利という捉え方に、医学モデルとしての限界が。

ⅱ)2001年国際生活機能分類(ICF, International Classification of Functioning, Disability, and Health 生活機能、障害および健康の国際分類)

 (a)生活機能および障害(生活機能が問題を抱えた状態)を、ICIDHと同じく3つの次元(body functioning & structure, activity, participation)に区分(障害の構造的理解)。

 (b)3つの次元は、いずれも健康状態からの影響と環境因子からの影響を受けることを明確化(人間と環境の相互作用モデルを打ち出した)。

 (c)ただ、活動分類と参加分類は分けにくい(たとえば「食事をする」「着物を着る」「買い物をする」などの生活機能が活動の次元か参加の次元か分けにくい)ことから、整理の仕方について各国の合意が得られず、WHOのつぎの改訂の重要課題として残った。

 

 ③援助・補装具・医療等を受けた上での稼得能力の判定――インクルーシブの視点から

 ④安部敬太他『障害年金 審査請求・再審査請求事例集』から

 

(3)障害年金と就労支援・社会参加促進の連携の欠如

 

(4)障害に起因する特別の費用とは何か、およびその保障のあり方について

 



[1] 「介護保障を考える弁護士と障害者の会全国ネット」通称「介護保障ネット」。同ネット編「支援を得て私らしく生きる!24時間ヘルパー介護を実現させる障害者・難病者・弁護士たち」(山吹書店・201610月)に同会の活動報告がある。

[2] 2018314日岡山地裁判決(『賃金と社会保障』17077頁)

[3] 20181213日広島高裁岡山支部判決(『賃金と社会保障』17268頁)